戦後およそ30年間に渡り、町域に商われたローカル銘柄。昭和61年、森永宮崎乳業(宮崎市/都城市)に営業権を譲渡、工場は閉鎖となり、ブランドは消滅している。
◆ふたりの田尻さんが牛乳屋を興す
明治22年、畜牛改良とともに飲用牛乳の普及を図った甲斐丹蔵氏が、高千穂エリアにおける先駆と伝わる。需要が伸び始めた同32年、本項組合の源流をなす田尻惣平・田尻平一郎の両氏がホルスタインを導入、共同処理場の運営に着手した。
事業はどうにか終戦まで続き、この間、惣平氏の長男である田尻新氏へ代替わり。掲げた屋号は「白水舎」と、宮崎市内に今も残る老舗(白水舎乳業)と同じだった。
◆戦後に高千穂酪農組合を旗揚げ
戦後の混乱が落ち着き、牛飼いの営みも復調した昭和27年、田尻氏を組合長に据えた高千穂酪農組合(任意組合)が、14名の陣容で発足。ミルクプラントを新設のうえ、いよいよ掲載の「高千穂牛乳」生産直売に乗り出す。
経営は茨の道だったが、10年越しの努力で基盤を固め、昭和38年には農事組合法人へ改組。延岡市のメーカーへの生乳出荷、学校給食用牛乳の供給も手掛け、44年時点の組合員数31名、乳牛は約100頭の規模に発展していく。
◆酪農衰退を受け自家処理を断念
しかしその後は酪農家の廃業相次ぎ、必然的に乳量は減少、自工場の維持が重荷となってしまった。昭和61年に市乳事業より撤退、翌年に工場を閉鎖されている。
営業に係る諸権利は森永宮崎乳業へ譲渡。現在、旧工場の跡地には「森永牛乳高千穂販売店」があり、その名残を留める。高千穂酪農組合は生乳出荷団体として健在だったが、平成6年にメンバー全員が延岡酪農協に移籍、解散手続きが取られた。