戦後、市内のメーカー・酪農家が連帯し南国乳業を発足も、方針相違で一部が離脱。昭和32年、本項の串間市酪農協が独立派生した。トレードマークは串間市章の翻案。正面から見た牛の顔の記号化とも取れる。円形は4つの“く”の字からなり「くし」と読ませる。
昭和31年、串間には11軒もの処理場が稼働。統廃合を経て、34年には本項組合と、南国乳業、阿部繁利氏の3軒まで淘汰が進んだ。
◆串間市域の酪農黎明期
一帯は旧藩政期より畜業の盛んな土地柄。使役・食肉用途に始まって乳牛は大正時代に入り、郡元に田中牧場、上小路に西村牧場が搾乳販売の途を拓いた。
戦後は西村氏、野辺氏、津江氏(田中牧場を継承)の牛乳屋3軒に加え、一般農家も乳牛飼育に乗り出し、酪農が本格普及していく。
昭和23年、酪農家有志が共同処理場の運営に着手。続々と同様の商売が広がり、簡易牛乳工場が5〜8軒ほどできる。しかし食品衛生法・乳等省令の公布を受け、近代的ミルクプラントへの転換が急務に。営業継続のため莫大な設備投資が必要となった。
◆南国乳業の分裂・串間牛乳の誕生
みんな零細経営で、単体対応は難しい。ここは大同団結すべしと、デンマーク帰りの酪農研修生・田中広文氏が呼び掛け。昭和30年、市内の牛乳店と農家の共同出資による南国乳業の旗揚げを決し、統合新工場の建設に臨んだ。
しかし工場の建設途上に、内部分裂を来たす。企業経営色の濃い田中氏の方針に、酪農家サイドが反発。31年、数十名が南国乳業を脱退。翌32年に串間市酪農業協同組合を結成し、「串間牛乳」の発売に至った。
組合は津江牧場さん(前記の法改正で自家製造を断念、雪印乳業販売店に転じていた)の旧工場を借り、拡張整備のうえ操業に漕ぎ着けたという。
◆福島酪農組合の発起
いっぽう南国乳業もメンバー流出を乗り越え、市乳処理を開始。「南国牛乳」を売り出したが、販売は不調。南国陣営に残ってくれた酪農家の乳量増加に消費が追い付かず、原料乳のたぶつきが常態化し、受け入れ制限せざるを得なかった。
余剰乳の始末に困った傘下の生産者は、昭和36年頃に農事組合法人・福島酪農組合を組織。南日本酪農協同(南日本/デーリィ牛乳)に出資参画し、同社への送乳に切り替えた。前後して南国乳業は集乳・販売とも行き詰まり、廃業を余儀なくされる。
◆確執を解消・串間酪農協へ統合
串間市酪農協も順風満帆とはいかず、危うい経営状況で推移。狭い地域に2つの酪農団体が存在の非効率は、行政・金融面の手当てに差し障り、往時の相克の弊害は大きかった。
市当局や県酪連、また組合員らも一本化を要望。昭和42年、串間市酪農協と福島酪農組合は解散。両者合併して串間酪農業協同組合を発足。新組合はミルクプラント経営を行わず、原料乳出荷に専念。「串間牛乳」銘は廃止となった。
◆組合統合以降のトピックス
昭和51年、旧・福島酪農組合から継承した南日本酪農協同への出資参画に関し、「乳価トラブルの火種」「将来を考えて維持すべき」と議論が紛糾。新・串間酪農協としては株式売却・離脱の結論に達し、その関係は断たれている。
また、旧・串間市酪農協が運用した牛乳工場は、統合後の製造撤退を受け、もともとの所有者である津江氏に復した。のちしばらく、津江氏の個人営業で乳酸菌飲料などが生産されたようだが、間もなく完全閉鎖に至っている。