都城牛乳都城牛乳

(記事下段)

都城牛乳

(株)日向農民公社
宮崎県都城市蔵原町2323-3
石塚硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代初期〜中期

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戦前〜戦後の約25年間に渡って商われた、都城(みやこのじょう)のローカル銘柄。中途で経営交代が生じており、掲載は2代目に該当する。独自の乳牛貸付システムを構築、一時は盛業。昭和36年、地元3社合資で宮崎協同乳業を立ち上げ、独自銘柄は消滅した。

◆戦災で焼失した都城牛乳を継承

原点は遡ること昭和9年、「石原牛乳屋」を営む石原福太郎氏が、姫城町に興した都城牛乳(株)。搾乳販売の企業化に取り組んだところだが、昭和20年、終戦の年の空襲でミルクプラントほか事業拠点を全て失い、経営が頓挫した。

地元の有力酪農家・井上輝夫氏は、戦後間もなく都城牛乳の権利一切を買収して、(株)日向農民公社を旗揚げ。工場と仔牛の育成所を新設、同銘にて市乳の処理販売に着手する。

井上氏は、昭和10年にできた豊安有畜農業組合の中心人物。かつては都城牛乳(株)所有の乳牛育成を請け負い、のちにウシを譲り受けて農乳組合を結成。自家搾乳・生乳出荷に臨むなど精力的に活動し、もともと両者の縁は深かった。

◆牛さんの強制レンタル契約

「日向農民公社」(都城ミルクプラント)は一風変わった名前だ。公社とは普通、政府や自治体も出資参画した半官半民の法人を指すが、ここは純然たる民間資本だったと思う。

とはいえ、運用には独特な点がある。井上氏は最初に、旧・都城牛乳に生乳を出荷していた都城農乳組合連合会のメンバーに出資を募り、数十名の株主農家を抱え、日向農民公社を設立。同時に株主農家へ乳牛を貸し付け・繁殖管理を行った。

公社は集乳(買入)条件として、貸付牛の受け入れを農家側に義務付ける。つまり個人所有の牛による搾乳・出荷は認めない方針だ。言わば「乳牛小作方式」の業態。預託制度で農家を囲い込み、乳業経営の安定を図ったという。

◆兵隊さん需要で酪農推進

小作方式の強制は、農乳組合でも賛否両論。都城牛乳(株)時代から会社側の貸付牛を中心に扱ってきた者と、自ら乳牛を持つ者との間で利害が対立した。

しかし農家側のリスクを減らすメリットは確かにある。最盛期は株主農家・貸付牛の飼育者は約100名に及び、都城牛乳は商圏を市外にも広げていく。一般家庭への宅配・小売りに加え、都城・宮崎・鹿屋の自衛隊駐屯地が大きな市場だった。

戦前にも、基地附設の陸軍/海軍病院が需要を上積み、地域住民の消費を上回る販売機会を得て、近郊の酪農発展に繋がる事例は多かったと言われる。

◆宮崎協乳の共同設立・森永傘下へ

商いは好調に推移するが、大手乳業の進出・農系プラント勃興で競争が徐々に激化。昭和36年、営業基盤の拡大と合理化を期し、地元の2酪農協とともに宮崎協同乳業を創立。合わせて森永乳業の資本参加を仰ぎ、系列乳業となった。

公社ミルクプラントは、宮崎協乳の市乳工場へ転換。「都城」銘は程なく廃止。その後も日向農民公社は販社・生乳出荷団体として?昭和46年まで存続している(なお、関連不詳ながら当地には過去、「日向農民協会」なる類似呼称の組織があった)。

井上氏は公社から10キロほど離れた市内の下水流町(しもづるちょう)に、宮崎乳業を別途経営。こちらは昭和40年頃まで単体で残っていたようである。


昭09> 石原福太郎氏が都城牛乳(株)を設立
昭12> 都城牛乳(株)/宮崎県宮崎市姫城町
昭20> 都城牛乳(株)は空襲により拠点を焼失
設立> 昭和20年、(株)日向農民公社として
             ※井上輝夫氏が都城牛乳(株)を買収、資料によっては昭和24年とも
昭24> 都城牛乳(株)・石原福次郎/宮崎県都城市姫城町4018
昭26> (株)日向農民公社・井上輝夫/宮崎県都城市上長飯町8258
昭28〜30> 同上/宮崎県都城市上長飯町5293
昭31> 都城ミルクプラント・井上輝夫/宮崎県都城市蔵原町2323-3
昭34〜36> (株)日向農民公社/同上
昭36> 地元メーカー3社が宮崎協同乳業(株)を共同設立、工場は同社に移管
昭46> 日向農民公社は解散する

独自銘柄廃止> 昭和36年
電話帳掲載・公式サイト> 未確認

処理業者名と所在地は、[宮崎県商工人名録]・[全国工場通覧]・[宮崎県年鑑]・[日本乳業年鑑]・全国飲用牛乳協会 [牛乳年鑑1957年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



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