はまゆう牛乳はまゆう牛乳

(記事下段)

はまゆう牛乳

(有)はまゆう牛乳舎⇒宮崎県乳業協同組合
宮崎県東臼杵郡門川町上町2-9
石塚硝子製・正180cc側面陽刻
昭和40年代後期〜50年代

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延岡市に拠点を置く2つのメーカーが、生産合理化と規模拡大を目論み、昭和47年に立ち上げた新会社・新ブランド。宮崎県の花・ハマユウをトレードマークに掲げ、集散離合の紆余曲折を経て30年ほど商われたが、平成12年頃に廃業されている。

◆昭和の協業・はまゆう牛乳舎の成立

消費人口の多い延岡市域には、明治・森永といった中央資本や九州乳業(みどり牛乳)の進出も激しく、販売競争が過熱していた。

地元商圏の防衛と処理施設の増強を急務と見た山本牧場(日の丸牛乳)と延岡酪農協(延酪牛乳)の両社は、昭和46年頃から協業を試み、47年に牧場と組合の折半出資で(有)はまゆう牛乳舎を設立、その新工場を隣接する東臼杵郡に落成、コンビでの商いに臨んだ。

48年には双方とも市乳の自家処理を廃し、製造を新会社に一本化。統一ブランド「はまゆう牛乳」(もしくは既存銘柄に「はまゆう」を併記)の集約処理・共同販売へ移行する。協業は時勢に合って大きく伸び、市内に40%のシェアを獲得するまでになった。

◆平成の協業・宮崎県乳業協同組合の成立

ところが昭和60年前後、仔細不明ながら新会社で経営方針を巡る対立・内紛が生じる。延岡酪農さんは「はまゆう」ブランドの共販を打ち切り、組合独自の製造販売に回帰の方針を採る。はまゆう牛乳舎は当初に思い描いた業容の維持が難しくなった。

こうして一時は潰えた協同の芽も、市況なお厳しく、地元各社は再び連携を模索。平成2年に至り、はまゆう牛乳舎と延岡の旭牧場(旭牛乳)、日向市の丸山乳業社の3社が、処理工場の統合を図って、宮崎県乳業協同組合を設立する。

県乳協は「はまゆう」ミルクプラントを全部借り上げ、増強整備のうえ基幹工場とし、鋭意操業を開始。この新組合に対しては、延岡酪農さんも引き続き一部アイテムの製造を委託。協調・融和路線がついに確立、と思われたのだが…。

◆再度の分裂により「はまゆう」終焉

ここでも経営を巡る内部紛争が勃発、数年でグループ運用は頓挫してしまう。旭牧場および延岡酪農は県乳協の集約製造から離脱、丸山さんは資本参加に留まり自家処理を継続していたため、組合には実質的に「はまゆう牛乳」山本牧場だけが残る結果となった。

その後、「はまゆう」単体での継続には限界があったと思われ、平成12年前後に県乳協は解散・廃業、銘柄は消滅。山本さん方は乳類の製販を手仕舞い、現在は(株)企照として、在宅介護支援・老人ホームの経営に転換されている。

― 関連情報 ―
はまゆう牛乳舎の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
宮崎県乳業協同組合の紙栓 (牛乳キャップとは?)
宮崎県乳業協同組合「はまゆう牛乳」 (愛しの牛乳パック)
はまゆう牛乳舎の宅配受け箱 (牛乳トラベラー)


設立> 昭和47年、(有)はまゆう牛乳舎として
昭48> (有)はまゆう牛乳舎/宮崎県東臼杵郡門川町門川尾末1935
昭50〜54> 同上/宮崎県東臼杵郡門川町門川尾末1980
昭56〜平01> 同上/宮崎県東臼杵郡門川町上町2-9
平02> 宮崎県乳業協同組合が発足、はまゆう牛乳の工場は同組合の運営となる
平04〜11> 宮崎県乳業協同組合/同上
廃業・解散> 平成12年前後?
電話帳掲載・公式サイト> 未確認

処理業者名と所在地は、食糧タイムス社 [全国乳業年鑑]・[食糧年鑑] 各年度版による。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



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