八幡牛乳八幡牛乳

(記事下段)

八幡牛乳

八幡乳業(株)
福岡県北九州市八幡区紅梅町4-3
石塚硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代後期〜40年代初期

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八幡市域の牛乳屋さんらが、戦後、処理販売を束ねる組合を結成。共販体制を敷き、各営業を「八幡牛乳」に集約、16年ほど商ったローカル銘柄。

大分県酪(⇒関連:みどり牛乳)や明治乳業の資本参加、株式会社への改組を経て、一時は県下有数の規模を誇った。しかし過酷な市場競争と系列化の圧力に耐えられず、昭和40年代中期に明治が完全買収、ブランドは消滅している。

◆協同組合から八幡乳業(株)へ

昭和26年、当地の有力な製販業者であった中村重太郎氏を中心に、同業者と販売店主が相集い、八幡牛乳処理販売協同組合を発足。

言わずと知れた鉄鋼の街にあって消費人口は多く、もとより大勢の顧客を既に抱えていたから、組合は順調に発展。28年の月産は、約40万本(180cc換算)に達した。

ところが九州各地に大手メーカーの進出が目立つようになり、市況は予断を許さない。そこで昭和32年、組合は原料乳調達先の大分県酪農協に資本参加を仰ぎ、八幡乳業(株)を設立。工場への設備投資・商材の増強を進めていった。

◆明治乳業の増資引き受け

八幡乳業は当時、大ブームを巻き起こしていた乳酸菌飲料(液状ヨーグルト)市場に参入、成功を収める。カルピスのような希釈タイプの小売に加え、濃縮原液の卸しも伸び、中部地方にまで出荷する盛況だった(⇒関連:135ccヨーグルト瓶)。

とはいえ市乳部門の販売合戦は依然厳しく、慢性的な資金不足に陥る。昭和36年には、福岡に基盤構築を図る明治の資本注入を受け、会社は八幡乳業・大分県酪・明治乳業の3者合資(各2千万円)体制に移行した。

社名も商い銘柄も変わらず、経営陣の大半は続投。あくまで地元/農民資本が主体である、という建て付けながら、実質的にはかなり苦しい状態だ。明治乳業の社史は、既にこの段階をもって「八幡乳業を系列下に入れた」とする。

◆乳酸菌飲料の終売を迫られて

程なく頼みの綱・乳酸菌飲料の商売に、思わぬ横槍が入る。株主となった明治乳業は、原料取引を通じ、カルピス社と深い仲。友好関係にある企業の競合・類似品を、八幡乳業が大々的に展開することに難色を示し、市場撤退の圧力をかけたらしい。

この要望には八幡乳業の経営陣も逆らえず、乳酸菌飲料の取り扱いを断念。稼ぎ頭・唯一の有力な手駒を失って、収支は悪化の一途を辿り、万事休す。昭和42〜43年頃、明治乳業に完全買収され、八幡ブランドは廃絶に至った。

◆後年は明治傘下の請け負い工場

地元の意向を汲んだのか、明治は買収後も八幡乳業の商号を変えることなく、そのまま明治製品の受託工場へ転換。のち長らく操業も、自社福岡工場(福岡市博多区、昭和35年〜平成14年)への業務統合にともない、昭和59年に閉鎖した。

牛乳キャップコレクター諸氏には「八幡乳業製の明治牛乳」紙栓が捕捉されるいっぽう、八幡オリジナル時代のものは殆ど見掛けない。瓶の残存も相当渋い感じである。

― 関連情報 ―
明治乳業福岡工場・八幡乳業の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
衆議院会議録情報 昭和59年3月27日 (国会会議録検索システム)


昭09> 中村重太郎/福岡県八幡市藤田地蔵谷
設立> 昭和26年、八幡牛乳処理販売協同組合として
昭31> 八幡牛乳処理販売協同組合・中村重太郎/福岡県八幡市紅梅町1
昭32> 大分県酪の資本参加を得て、八幡乳業(株)に改組・改称
昭34〜36> 八幡乳業(株)/同上
昭36> 明治乳業が資本参加し、八幡・県酪・明治の3者合資となる
          のち昭和42〜43年頃に明治乳業が完全買収も、商号は変わらず
昭38> 八幡市は周辺4市と合併して北九州市となる

昭39〜47> 同上/福岡県北九州市八幡区紅梅町4-3
昭48> 同上/福岡県北九州市八幡区紅梅1-10-9
昭49> 八幡区は八幡西区と八幡東区に分区される
昭50〜58> 同上/福岡県北九州市八幡西区紅梅1-10-9
解散・廃業> 昭和59年
電話帳掲載・公式サイト> 未確認

処理業者名と所在地は、牛乳新聞社「大日本牛乳史」・全国飲用牛乳協会 [牛乳年鑑1957年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



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