青柳牛乳青柳牛乳

(記事下段)

青柳牛乳

青柳酪農業協同組合
福岡県粕屋郡古賀町大字青柳1072
日本硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代中期

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戦後、およそ20年間に渡って商われた農系ブランド。往時は郡域のみならず福岡市にも進出し、県下中堅規模の業容を誇った。しかし昭和40年、北九州市の西酪協同(ニシラク牛乳)に事業譲渡。ブランドは消滅している。

掲載は赤青2色刷り、「生産者から消費者へ直結販売」の意気込みが光る、かつてのオリジナル。山梨・みづほ牛乳に迫るご達筆な銘柄標示だ。

◆乳牛飼養・酪農組合の起こり

町域への乳牛導入は昭和19年。立花蜜柑を筆頭に果樹栽培の盛んな農村だったが、戦時は肥料不足、労働力の欠乏、軍馬供出などで疲弊し、生産高は著しく低迷。危機打開のため、畜力と厩肥の確保を図る試みだった。

有志一同、飼料を自力で賄える家畜の選定・有畜農業の研究に臨み、当初は養豚・養鶏が有望視されたが、熟慮のすえ乳牛に計画変更。静岡からホルスタイン25頭を入れ、戦後の昭和20年10月には青柳酪農組合を結成する。

地元に駐屯していた陸軍部隊は、自給用の乳牛を放出、一帯の牛飼いはさらに増えていく。昭和21年、組合はミルクプラント経営に着手、「青柳牛乳」の直売を始めた。

◆戦後の規模拡張・青柳牛乳の展開

組合幹部は無報酬で基盤確立に奔走、市乳事業を軌道に乗せる。昭和26年、青柳酪農業協同組合へ改組。同30年には乳牛150頭、組合員100名余に達した。

「青柳牛乳」は大消費地の福岡市にも進出。現地の小売店・卸会社と特約を結んで出荷のいっぽう、博多駅前での販売権を自ら獲得して拡売に努め、32年には学校給食用委託乳に参入。農民企業の成功事例として名を馳せた。

乳製品の需要拡大期にあって商売は好調も、メーカー間の競争が凄まじく、特に経済自由化以降は厳しさを増した。往時の福岡県下には70軒以上の処理工場が稼働、産地としては生乳自給率90%超の活況を呈している。

◆九州乳業(みどり牛乳)への参画

青柳酪農協は県下中堅規模の地歩を占めたが、業界大手の進出・寡占化も進行しつつあり、経営は容易でなく、地場企業の共倒れが懸念され始める。

農林省や県行政は、明治や森永といった中央資本に属さない中小メーカーへ、集約合理化と需給調整を担う大型工場の設置を促す。昭和39年、2県と7団体の合資で九州乳業(みどり牛乳)が発足。青柳酪農協も資本参加し、株主の末席に名を連ねた。

◆ニシラク牛乳による買収

翌40年、青柳酪農協の市乳事業一切は、同じく九州乳業に出資参画した西酪協同(株)に買収される。ミルクプラントは同・青柳工場となり、組合の独自ブランドは消滅。恐らく単体存立の限界を見て、予め計画された流れだろう。

昭和42年には西酪協同・小倉工場の増設完了を受けて、青柳工場は早々に閉鎖。以降、周辺の牛飼いが減少の一途を辿るなか、青柳酪農協は生乳出荷団体として存続。現況不明ながら、平成初年までの運営は確認できた。

― 参考情報 ―
果樹水田村にみる乳牛飼養農家の動向 (農業総合研究8巻1号)
青柳酪農協の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ) / 同・紙栓 (がらくた)


設立> 昭和20年、青柳酪農組合として ※翌21年、市乳事業を開始
昭26> 青柳酪農業協同組合へ改組・改称
昭28> 青柳酪農業協同組合/福岡県糟屋郡青柳村
昭30> 青柳村は周辺町村と合併し、古賀町となる
昭31> 青柳酪農協・植田正吉/福岡県粕屋郡古賀町青柳1072-2
昭34〜40> 青柳酪農業協同組合/福岡県粕屋郡古賀町大字青柳1072
昭40> 西酪協同(株)が処理工場・営業権を買収、同・青柳工場となる
昭41> 西酪協同(株)青柳工場/福岡県粕屋郡古賀町大字青柳町
独自銘柄廃止> 昭和40年頃
工場閉鎖> 昭和42年頃
電話帳掲載・公式サイト> 未確認

処理業者名と所在地は、[古賀町誌]・全国飲用牛乳協会 [牛乳年鑑1957年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



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