古谷牛乳古谷牛乳

創業は明治30年、およそ120年の歴史を当地に刻む、老舗の牛乳屋さん。掲載は明治牛乳のデザインを拝借?した、往年の一本。

平成12〜13年の乳業施設再編合理化で、近在の磯田乳業(アサヒ牛乳)と共に自家処理を中止。現在製造は栃木乳業が請け負う。

結果、瓶は「古谷」、紙栓は「栃木」銘(自社ビン+委託先工場キャップ)の包装形態に。前記の磯田さん方も同じく変わっている。

古谷牛乳

古谷龍一(古谷牛乳処理所)
栃木県下都賀郡野木村大字野渡825
新東洋硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代中期

◆三井物産幹部のご経歴

古谷牛乳を創始した古谷龍蔵氏は、山口県の出身。旧士族の家に生まれ、明治初期、三井物産が先収会社だった時代から要職を務めた人物だ。

詳しいプロフィールは分からないが、各種資料に足跡は多い。日本郵船の支配人、東京製綱への出資参画、三井の諸事業を率いた益田孝氏に同道し三池炭鉱(後の三井鉱山)を視察の記録も残る。維新後は実業家として活躍されたらしい。

創業期三井物産の有価証券所有 (専修大学社会科学年報 第45号)

◆レンガ会社の役員に就き栃木へ移住?

古谷氏の栃木来訪は明治21年、下野煉化製造会社の発起、理事就任が端緒だろう。これは野木村のレンガ工場で、前身は東輝煉化石製造所。もともと三井物産が特約を結び、当時最新の建築材・赤レンガの取引関係もあった。

一帯は渡良瀬川、思川など複数河川の合流地。土砂堆積し良質な粘土に事欠かず、必然的に水運に恵まれ煉瓦産業が発展。明治26年に製造会社が下野煉化(株)に改組すると、古谷氏は改めて専務取締役に就いた。

◆野木村に古谷牧場の創設

関東各地の鉄道起工や水道工事の需要増で、レンガは飛ぶように売れる。東京駅や足尾銅山、日光金谷ホテル(金谷牛乳)の本館建築向けにも出荷した。しかし明治30年、三井物産は提携を解消。三井グループとの繋がりは希薄になっていく。

古谷氏が下野煉化のある野木村に牧場を作り、搾乳販売へ着手するのは同じく明治30年。レンガ会社を辞したのち、栃木を第二の郷里と定め、引き続き村に生活拠点を置き、新事業を興した…という流れを想像するが、実際の成立過程は不明だ。

◆古谷牛乳の展開

昭和11年の統計では乳牛40頭・年間搾乳量9,000リットル・従業員21名・主要販路は古河町、佐野町、安蘇郡、足利郡とあり、ご商売は順調に伸びた様子がうかがえる。周辺の酪農普及は戦後の話で、往時は完全自給の業態だったと思う。

掲載瓶の電話番号は、野木の隣町、茨城県古河町(現・古河市)を示す。工場とは別に設けた、メインの営業所・販売店だろう。梅のマークは家紋の匂い梅に似て、古谷家の紋かも知れない。とにかく茨城での商いには良さそうな商標だ。

【付記】下野煉化のその後と足銀破綻

下野煉化は大正・昭和と赤レンガを焼き続け、昭和46年に(株)シモレンと改称。47年、耐火煉瓦と屋根瓦の生産に移行、セメントにも着手。地元経済を支える存在だった。

しかし平成6年、社長が独断で進めた乗馬クラブ運営で巨額赤字を計上、会社は大きく傾く。シモレンは粉飾決算にまみれ、平成13年、負債376億円で破産。この間、乱脈融資を繰り返したメーンバンクの足利銀行も、バブル時代の拡大路線が災いして15年に破綻する。

シモレンの面影は今も残る。乗馬クラブは渡良瀬北斗乗馬倶楽部が継承(現・クレイン栃木)。産業遺構・旧下野煉化製造会社煉瓦窯(ホフマン式輪窯)は国の重文指定だ。

― 参考情報 ―
古谷牛乳処理工場 (ごった煮) / 同・工場 (乳業探訪記)
古谷牛乳の紙栓 (牛乳キャップとは) / 同・紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
旧シモレン 煉瓦窯公開日 (山男のブログ) / シモレン専用線 (栃木の鉄道廃線ぶらり旅)
シモレン煉瓦窯 (動物園、B級スポット大好き) ※IAキャッシュ
旧下野煉化製造会社煉瓦窯 (栃木県内見て歩る記)
検証・足銀破たん「不透明な融資」(6)建材商社シモレン (読売新聞) ※掲載終了


創業> 明治30年
昭09〜36> 古谷龍一/栃木県下都賀郡野木村 ※戦時は一時中絶と見られる
昭38> 野木村は町制施行する
昭39〜60> 同上/栃木県下都賀郡野木町大字野渡825
平01〜04> 古谷牛乳処理場/同上
平12> 乳業施設再編合理化で自家処理を中止、以降は製造委託
電話帳掲載> 古谷牛乳/同上
公式サイト> 未確認

処理業者名と所在地は、牛乳新聞社「大日本牛乳史」・全国飲用牛乳協会 [牛乳年鑑1957年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。電話帳の確認は平成19年時点。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



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