本邦随一の老舗、名門・日光金谷ホテルが、往時に牛飼い・搾乳・瓶詰めまで、一貫処理のもと製造していた自家ブランド。宿泊施設に牧舎と牛乳工場を併設運営、業務用の自給に留まらず一般小売へ乗り出した、全国的にも稀有な事例(※)だ。
明治6年、主に横浜から来る外人旅客を迎えるため開業。現存では日本最古のリゾートホテル。西洋料理に必要な牛乳・乳製品の安定確保を期し、自ら牧畜を手掛けた。宿泊客に提供の傍ら、ホテル外で市販にも至るが、昭和40年頃に廃止されている。
※ 数少ない類例が新潟県直江津市のいかや旅館さん。戦後から昭和40年代まで牛乳工場を擁した。こちらは駅弁の製販を手掛けており、恐らく主として駅売りに出していたものと思われる。
◆畜産部の設置・金谷牛乳の誕生
乳原料の自力調達は大正15年に始まった。特に外人さん向けに欠かせない新鮮なミルクを常備すべく、直営の畜産部を設置。松屋敷(当時のホテル別館・別荘)に牛舎と簡易処理場を据えて、牛乳やバター、野菜類の自給体制を敷いたという。
ホテルではその前年、今も金谷ホテルベーカリーの名で知られる製パン部が始動。乳類は品質を重視するパン作りにも活用されただろう。
「必要なものが無ければ自分で取り組む」金谷の姿勢は徹底的。明治41年、当地にまだ電気が来ていない頃、ドイツの水力発電機を輸入。ホテルに電燈を付けた筋金入りだ。
◆掲載びん・販路について
戦前はホテル内の消費で完結したようだが、戦後、少なくとも昭和20〜30年代は一般需要の急増に応え、家庭宅配や店頭小売に進出したらしい。
掲載瓶の注記「ビンは洗つて返しませう」の含意は、飲用後に長時間放置すると、蛋白汚れが凝固し洗浄に難儀するから。ホテル内に限ると不自然な標示だ。また、宅配契約時の景品と思しき金谷牛乳のノベルティーコップも存在する。
乳製品が希少だった時代は遥かに遠く、専業の発展で入手は格段に容易となる。コスト面も引き合わず、昭和40年頃に畜産部を廃止、市乳事業より撤退した。
◆金谷ホテルを育てたヘボン博士
金谷ホテルとその牛乳史には、もっと古い挿話もある。日本初の和英辞典を著し、ヘボン式ローマ字綴りを考案したヘボン博士。氏は幕末に来日し、外国人居留地の横浜十全病院で長を務め、またキリスト教宣教師の任にあたっていた。
鎖国幕政の窮屈を経て、体制激変する明治維新。日本の歴史が大きく動いた瞬間、これまで肩身の狭い思いを味わった博士には解放感があったはず。そして旅に出たくなった。
◆ヘボン夫妻、日光へ行って困る
この頃はまだ、外国人の国内旅行は危険・原則禁止の世情。しかしヘボン氏は噂に聞く風光明媚な日光・東照宮の建築美に強く心惹かれ、明治3年末、思い切って夫婦で出立。人力車と牛車を乗り継ぎ、翌4年、日光へ辿り着いた。
ところが宿がない。実際には旅館がいくつかあるが、ガイジンさんお断り。開国して間もない田舎、住民は警戒・拒絶。ちょっと甘い旅の見積りの原因は、居留地・横浜の環境がそれなりに整っていたせいか。立派なホテルも、横浜ならば既にあった。
ヘボン夫妻は路傍に腰を下ろし、あてど無く困り果てる。そこへたまたま、地元代々のお武家さん、金谷善一郎氏が通り掛かり、窮状を見かねて自宅に招待。臨時の宿を提供したのだった。
◆ジェスチャークイズの答え:ミルクとたまご
一夜明け、夫妻は朝食を求めた。博士は牛の鳴き真似をし、手に垂らしたハンカチを用いて乳搾りの仕草をして見せる。当時かろうじて薬用・滋養食品としての販売が始まっており、金谷氏は牛乳のリクエストをすぐに理解できた。
ミルクの意が通じると、博士は次のミッションへ臨む。今度はハンカチを丸め、ニワトリが卵を産む物真似を敢行。加えて牛乳は加熱殺菌、鶏卵はボイルすることを身振り手振りで金谷氏に示す。結果、相当な時間を要したろうが、牛乳と目玉焼きにありついた。
維新で役職を失った若き武家の9代目と、異国の宣教医夫妻が向かい合い、明治4年の日光でこんなジェスチャークイズをしていたわけで、何とも浮世離れした光景だ。
◆カッテージ・インから金谷ホテルへ
ヘボン夫妻との邂逅は、善一郎氏が二十歳の頃。誰にも相談せずガイジンを家に泊めた、という行為は、ムラ社会において氏の立場を悪くする。古来、東照宮に勤めた家筋なのだが、これをきっかけに半ば仕事を干されたという。
2年後の夏、ヘボン夫妻は避暑旅行で金谷家を再訪。屋敷の一部を借り、改めて日光を満喫。「外国人観光客はもっと増える。貸し部屋を作ってはどうか」善一郎氏は博士の助言に従い、明治6年に民宿(金谷カッテージ・イン)を開いた。
以降、夫妻の紹介で横浜より宿泊客が続々。宿は「サムライ・ヤシキ」の愛称で親しまれる。明治26年、建築中に頓挫したホテル(現・本館)を買収し、日光金谷ホテルの竣工、開業に至った。
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