フルヤ牛乳フルヤ牛乳 フルヤ牛乳 (2)フルヤ牛乳 (2)
フルヤ牛乳 (1)

古谷乳業(株)成東工場
千葉県山武郡成東町成東町2-502
日本硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代中期〜40年代初期
フルヤ牛乳 (2)

古谷乳業(株)成東工場
千葉県山武郡成東町成東町2-502
山村硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代中期〜40年代初期

フルヤ牛乳 (3)フルヤ牛乳 (3)
(株)フルヤ牛乳店のPR用名刺(昭和29年)

画像上:(株)フルヤ牛乳店のPR用名刺(昭和29年)…この3本が初代の印刷瓶装か。「ビタミン入・濃厚ホモジナイズ牛乳」と宣伝。
フルヤ牛乳 (3)

古谷乳業(株)千葉工場
千葉県千葉市新港14
東洋ガラス製・正200cc側面陽刻
200cc移行後〜昭和50年代

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戦後創立から70年余、今も県下に広く親しまれるローカル乳業さん。大手メーカーが地方進出し始めた昭和30年代、雪印より合併提案もあったが謝絶。市場競争を経て、フルヤはコーシンと双璧を成す、千葉のご当地ブランドへ成長を遂げる。

ビン詰めは各種存続も、平成17〜18年にかけて、大半をプラ栓・無地の軽量新瓶に移行済みだ。(⇒新瓶切り替え乳業一覧/牛乳キャップとは)

◆フルヤとコーシン・古谷家の縁故

興真乳業(コーシン牛乳)さんはご親戚。両社とも現在に至るまで代表は同姓・古谷氏。フルヤ草創期のメンバー、二代目社長・古谷良作氏は、戦前の興真舎・習志野牧場で働いた後、都下の興真牛乳販売店を切り盛り、稼業の経験を積んでいる。

そんな縁あってフルヤ牛乳は、興真牛乳と同じ三角マークを用いた。これは古谷家の家紋・剣片喰に着想を得た興真舎の開祖が、明治期に作った商標である(後述)。

古谷乳業の製品集合写真(昭和41年)
画像上:古谷乳業の製品集合写真(昭和41年)…全9種の瓶装が並ぶ夢の時代。掲載瓶も見える。
古谷乳業の製品集合写真(昭和50年)
画像上:古谷乳業の製品集合写真(昭和50年)…200cc移行後のラインナップ、まだ瓶が多く残る。

◆謹造氏による松栄舎牛乳の商い

創始の古谷謹造氏は、稲作と養蚕を営む地元農家の生まれ。長男として家業を継ぐが、病弱の身は思うに任せず、余技を模索。昭和9年、牛飼いに取り掛かり、12年には四弟・忠一氏とともに「松栄舎牛乳」の販売を始めた。

松栄舎は山武郡下の搾乳業者らが運営する合資会社。共同処理場に生乳を持ち寄って一括製造を行い、販売区域を定めて各々売り捌く協業体制だった。古谷兄弟は拡売に邁進、昭和16年頃には担当5町村、日配400本に達す。

しかし戦争勃発で飼料・燃料は欠乏、弟は徴兵され労働力の確保も困難に。昭和18年頃、松栄舎は操業不能に陥り、牛乳屋さん稼業は中絶を強いられる。

◆良作氏による興眞牛乳の商い

いっぽう謹造氏の三弟・良作氏は、昭和9年に郷里を離れ、乳業界で名門の地位を築いていた興眞舎(コーシン牛乳)へ。経営者の大伯父・古谷精一氏の計らいで同舎の習志野牧場に就職。そこで2年ばかり乳牛飼養を学ぶ。

牧場を辞して昭和11年、今度は興眞牛乳の販売店をやっていた伯父の誘いを受け、富ヶ谷本店(渋谷)に勤務。のち新設の豪徳寺支店(世田谷)店主となり、14年に譲り受けて独立。日配800本の好調も、戦時統制下、19年にやむなく廃業する。

◆三兄弟が合流し牛乳屋さん再始動

終戦時、謹造氏は乳牛10頭を何とか残していたが、働き手がおらず、牛乳販売もままならない。ところへ良作・忠一の弟両氏が帰郷、再開の目途が立つ。

良作氏はまず、成東駅前で量り売りをした。なにしろ食糧不足の頃だから大いに売れる。とはいえ統制価格が残る時代のヤミ商売。「このやり方は続けられない」と、案じるそばから警察の摘発を喰らう。真っ当な道に向かうのが急務だった。

昭和20年、兄弟で資金を出し合い、成東の飲食店跡地を購入。中古ボイラーや旧式の蒸気殺菌釜を買って据え付けた。また、良作氏は豪徳寺の燐家に空き瓶を預けており、それを200本ほどリュックに詰めて持ち帰って、最初の容器にしたという。

◆成東の状況・銚子への進出

こうして成東工場が発足、乳業の体裁が整う。町は山武郡の中心・消費地であり、九十九里沿岸の旧陸軍(近衛第三師団・範部隊)から、自給用の乳牛の払い下げを受けた農家も多い。周辺に原料乳を求められる好立地だった。

昭和23年頃、成東町域での販売が頭打ち。地価の高い千葉・市川方面を避けて、銚子に進出。銚子工場には良作氏夫妻が移り住み、「とうとう日本のはずれまで来た、ここで失敗すれば次は海の中」の覚悟で生産・営業に打ち込む。

銚子には大利根、伊東、マルテ、辻牛乳といった地場メーカーが存在、競争は激しい。ただし大利根牛乳以外は、原乳をフルヤ経由で仕入れており、商売上は有利な環境だ。力を蓄え、手が出なかった千葉市にも、昭和42年に新工場を開設した。

フルヤ牛乳の東金販売所と松尾販売所の外観(昭和30〜40年代)フルヤ牛乳を運ぶ学校給食の風景(昭和50年頃)
画像左:フルヤ牛乳の東金販売所と松尾販売所の外観(昭和30〜40年代)
画像右:フルヤ牛乳を運ぶ学校給食の風景(昭和50年頃)…いずれも[古谷乳業30年史]より。

◆フルヤ牛乳の誕生とコーシン商標の拝借

戦後しばらくは無印で商い、昭和23年に名称を「フルヤ牛乳」と決定。この際、良作氏は大伯父(精一氏)に相談のうえ、興眞舎の三角マーク利用の許しを得る。まるきり一緒ではなく、フルヤ側は図形の中を白く抜いた。

当時はそれで良かったが、販路は徐々に拡大。両社の商圏が被ると、紛らわしさはあった。昭和50年には傘下団体を巡って対立。本来ひとつが望ましいエリアに、フルヤ系の千葉県東部酪農農協、コーシン系の両総酪農農協が分立の一幕も。

発展解消は必然か。平成8年頃、古谷乳業は長らく拝借の商標を廃止、水玉模様の集合体にリニューアル。コーシンも同時期にマークを変えている。

◆古谷乳業30年史・創業期の裏話

創業期〜成長期の仔細は[古谷乳業30年史](昭和51年・自刊)に詳しい。明治や森永の社史と同じく、直言の多い座談会の項は見所だ。以下にその一部を紹介する。※前段の説明や中途経過など、文意を損ねない範囲で適宜省略・要約しています。

拡売活動のトラブルについて(昭和20年代中期)

司会者 大利根牛乳(当時、銚子にあった地乳業)と喧嘩したことがありましたね。

社長(良作氏) ありました。銚子に進出して1年くらい経った時です。保健所で牛乳屋の講習会があり、そこに大利根牛乳も来ていて、得意先を奪われたと因縁をつけてきました。売り言葉に買い言葉で、外に出て勝負をつけよう、ということになりました。

保健所の脇の原っぱに双方が一列に並んで、向かい合ったところに、保健所の人が飛んできて止めてくれました。まるでやくざの喧嘩のようでした。チンピラを使って、配達を妨害されたこともあります。

社長夫人 外に出る時は金づちを持って歩いていましたね。

涙ぐましい街宣活動(昭和20年代中期)

社長(良作氏) 回収した瓶の中に、キャップが押し込まれて、入ったままのがあるでしょう。それを取り出して乾燥し、人の多く通る道路などにばら撒いたことがあります。表のフルヤ牛乳という文字がよく見えるようにしてね。宣伝のためでした。

金が乱れ飛んだ集乳戦争(昭和27年)

司会者 四街道の北総牛乳にかなりの原乳をとられたことがありましたね。

工場関係者 その条件が大変なものでフルヤより2円高、そのほかに前渡し金40万円。

工場関係者 眠れない夜もありました。結局北総に走った酪農家は目先の利益に幻惑されたのでしょう。北総のやり方は明日に責任をもたず、今日だけ嘘をつくやり方でした。邪道は栄えませんね。

社長(良作氏) 丁度その頃アイスクリームが始まり、練乳相場が高かった。アイスのメーカーが金を出して、練乳工場である北総に原乳を集めさせたのです。ところが翌年アイスが売れなくなって、練乳は供給過剰。それで北総牛乳は昭和28年、倒産しました。

工場関係者 それまでにも(酪農家を取り込み原料乳を確保するため)飲ませ食わせ、はありましたが、現金で原乳が動くのは、初めての経験でした。

アイスクリームバブルは早々に溶けてしまい、練乳価格は暴落。強気の買い付けを行った会社の哀れな末路。この練乳不況は全国規模であり、多くの事業者を苦しめた。

他の酪農・乳業史も、当時の困窮について言及する。例えば山梨瑞穂乳牛農協(みづほ牛乳)さんなど、閉塞打開のため市乳を商い始めた、という流れも生じている。

― 参考情報 ―
古谷乳業・成田工場の紙栓 / 同・千葉工場 / 同・銚子工場 (牛乳キャップとは)
同・成田工場(1) (2) (3) / 千葉工場 / 銚子工場 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
同・紙パック製品 (愛しの牛乳パック) / 同・販促コップ (牛乳グラス☆コレクション)


創業> 昭和20年 ※同23年「フルヤ牛乳」銘の販売開始
設立> 昭和26年、(株)フルヤ牛乳店として
昭32> 古谷乳業(株)へ改称
電話帳掲載> 古谷乳業(株)本社/千葉県千葉市美浜区新港14
公式サイト> http://www.furuya-milk.co.jp/

本社・工場所在地を転々としつつ、成東・銚子・千葉の工場は閉鎖/営業所・物流倉庫に転換。
現在の生産拠点は成田工場へ一本化されている。


■成東工場
開設> 昭和20年 ※創業地
昭31> 古谷牛乳 成東工場/千葉県山武郡成東町津部119
昭34> 古谷処理場/同上 ※同年閉鎖・移転
          古谷乳業(株)/千葉県山武郡成東町成東2-502 ※新工場
昭36> 古谷乳業(株)成東工場/同上
昭39〜40> 同上/千葉県山武郡成東町津部119-1 ※新旧住所混同?
※以降、乳業年鑑名簿上の掲載を確認できず
工場閉鎖> 昭和51年

■銚子工場
開設> 昭和24年
昭31> 古谷牛乳(株)/千葉県銚子市清川町1-710
昭34> 古谷良作/同上
昭36〜50> 古谷乳業(株)銚子工場/同上
昭50> 工場は松本町に移転
昭53〜平01> 同上/千葉県銚子市松本町5-270
工場閉鎖> 平成4年、成田工場の完成による

■千葉工場⇒成田工場
開設> 昭和42年
昭43〜平01> 古谷乳業(株)千葉工場/千葉県千葉市新港14
平03> 成田工場を新設、千葉工場は閉鎖
平04〜13> 古谷乳業(株)成田工場/千葉県香取郡多古町水戸字水戸台1-16
電話帳掲載> 同上

処理業者名と所在地は、全国飲用牛乳協会 [牛乳年鑑1957年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。電話帳の確認は平成19年時点。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



漂流乳業