戦後創立から70年余、今も県下に広く親しまれるローカル乳業さん。大手メーカーが地方進出し始めた昭和30年代、雪印より合併提案もあったが謝絶。市場競争を経て、フルヤはコーシンと双璧を成す、千葉のご当地ブランドへ成長を遂げる。
ビン詰めは各種存続も、平成17〜18年にかけて、大半をプラ栓・無地の軽量新瓶に移行済みだ。(⇒新瓶切り替え乳業一覧/牛乳キャップとは)
◆フルヤとコーシン・古谷家の縁故
興真乳業(コーシン牛乳)さんはご親戚。両社とも現在に至るまで代表は同姓・古谷氏。フルヤ草創期のメンバー、二代目社長・古谷良作氏は、戦前の興真舎・習志野牧場で働いた後、都下の興真牛乳販売店を切り盛り、稼業の経験を積んでいる。
そんな縁あってフルヤ牛乳は、興真牛乳と同じ三角マークを用いた。これは古谷家の家紋・剣片喰に着想を得た興真舎の開祖が、明治期に作った商標である(後述)。
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画像上:古谷乳業の製品集合写真(昭和41年)…全9種の瓶装が並ぶ夢の時代。掲載瓶も見える。 |
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画像上:古谷乳業の製品集合写真(昭和50年)…200cc移行後のラインナップ、まだ瓶が多く残る。 |
◆謹造氏による松栄舎牛乳の商い
創始の古谷謹造氏は、稲作と養蚕を営む地元農家の生まれ。長男として家業を継ぐが、病弱の身は思うに任せず、余技を模索。昭和9年、牛飼いに取り掛かり、12年には四弟・忠一氏とともに「松栄舎牛乳」の販売を始めた。
松栄舎は山武郡下の搾乳業者らが運営する合資会社。共同処理場に生乳を持ち寄って一括製造を行い、販売区域を定めて各々売り捌く協業体制だった。古谷兄弟は拡売に邁進、昭和16年頃には担当5町村、日配400本に達す。
しかし戦争勃発で飼料・燃料は欠乏、弟は徴兵され労働力の確保も困難に。昭和18年頃、松栄舎は操業不能に陥り、牛乳屋さん稼業は中絶を強いられる。
◆良作氏による興眞牛乳の商い
いっぽう謹造氏の三弟・良作氏は、昭和9年に郷里を離れ、乳業界で名門の地位を築いていた興眞舎(コーシン牛乳)へ。経営者の大伯父・古谷精一氏の計らいで同舎の習志野牧場に就職。そこで2年ばかり乳牛飼養を学ぶ。
牧場を辞して昭和11年、今度は興眞牛乳の販売店をやっていた伯父の誘いを受け、富ヶ谷本店(渋谷)に勤務。のち新設の豪徳寺支店(世田谷)店主となり、14年に譲り受けて独立。日配800本の好調も、戦時統制下、19年にやむなく廃業する。
◆三兄弟が合流し牛乳屋さん再始動
終戦時、謹造氏は乳牛10頭を何とか残していたが、働き手がおらず、牛乳販売もままならない。ところへ良作・忠一の弟両氏が帰郷、再開の目途が立つ。
良作氏はまず、成東駅前で量り売りをした。なにしろ食糧不足の頃だから大いに売れる。とはいえ統制価格が残る時代のヤミ商売。「このやり方は続けられない」と、案じるそばから警察の摘発を喰らう。真っ当な道に向かうのが急務だった。
昭和20年、兄弟で資金を出し合い、成東の飲食店跡地を購入。中古ボイラーや旧式の蒸気殺菌釜を買って据え付けた。また、良作氏は豪徳寺の燐家に空き瓶を預けており、それを200本ほどリュックに詰めて持ち帰って、最初の容器にしたという。
◆成東の状況・銚子への進出
こうして成東工場が発足、乳業の体裁が整う。町は山武郡の中心・消費地であり、九十九里沿岸の旧陸軍(近衛第三師団・範部隊)から、自給用の乳牛の払い下げを受けた農家も多い。周辺に原料乳を求められる好立地だった。
昭和23年頃、成東町域での販売が頭打ち。地価の高い千葉・市川方面を避けて、銚子に進出。銚子工場には良作氏夫妻が移り住み、「とうとう日本のはずれまで来た、ここで失敗すれば次は海の中」の覚悟で生産・営業に打ち込む。
銚子には大利根、伊東、マルテ、辻牛乳といった地場メーカーが存在、競争は激しい。ただし大利根牛乳以外は、原乳をフルヤ経由で仕入れており、商売上は有利な環境だ。力を蓄え、手が出なかった千葉市にも、昭和42年に新工場を開設した。
◆フルヤ牛乳の誕生とコーシン商標の拝借
戦後しばらくは無印で商い、昭和23年に名称を「フルヤ牛乳」と決定。この際、良作氏は大伯父(精一氏)に相談のうえ、興眞舎の三角マーク利用の許しを得る。まるきり一緒ではなく、フルヤ側は図形の中を白く抜いた。
当時はそれで良かったが、販路は徐々に拡大。両社の商圏が被ると、紛らわしさはあった。昭和50年には傘下団体を巡って対立。本来ひとつが望ましいエリアに、フルヤ系の千葉県東部酪農農協、コーシン系の両総酪農農協が分立の一幕も。
発展解消は必然か。平成8年頃、古谷乳業は長らく拝借の商標を廃止、水玉模様の集合体にリニューアル。コーシンも同時期にマークを変えている。
◆古谷乳業30年史・創業期の裏話
創業期〜成長期の仔細は[古谷乳業30年史](昭和51年・自刊)に詳しい。明治や森永の社史と同じく、直言の多い座談会の項は見所だ。以下にその一部を紹介する。※前段の説明や中途経過など、文意を損ねない範囲で適宜省略・要約しています。
拡売活動のトラブルについて(昭和20年代中期)
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司会者
大利根牛乳(当時、銚子にあった地乳業)と喧嘩したことがありましたね。
社長(良作氏) ありました。銚子に進出して1年くらい経った時です。保健所で牛乳屋の講習会があり、そこに大利根牛乳も来ていて、得意先を奪われたと因縁をつけてきました。売り言葉に買い言葉で、外に出て勝負をつけよう、ということになりました。
保健所の脇の原っぱに双方が一列に並んで、向かい合ったところに、保健所の人が飛んできて止めてくれました。まるでやくざの喧嘩のようでした。チンピラを使って、配達を妨害されたこともあります。
社長夫人
外に出る時は金づちを持って歩いていましたね。 |
涙ぐましい街宣活動(昭和20年代中期)
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社長(良作氏)
回収した瓶の中に、キャップが押し込まれて、入ったままのがあるでしょう。それを取り出して乾燥し、人の多く通る道路などにばら撒いたことがあります。表のフルヤ牛乳という文字がよく見えるようにしてね。宣伝のためでした。 |
金が乱れ飛んだ集乳戦争(昭和27年)
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司会者
四街道の北総牛乳にかなりの原乳をとられたことがありましたね。
工場関係者 その条件が大変なものでフルヤより2円高、そのほかに前渡し金40万円。
工場関係者
眠れない夜もありました。結局北総に走った酪農家は目先の利益に幻惑されたのでしょう。北総のやり方は明日に責任をもたず、今日だけ嘘をつくやり方でした。邪道は栄えませんね。
社長(良作氏)
丁度その頃アイスクリームが始まり、練乳相場が高かった。アイスのメーカーが金を出して、練乳工場である北総に原乳を集めさせたのです。ところが翌年アイスが売れなくなって、練乳は供給過剰。それで北総牛乳は昭和28年、倒産しました。
工場関係者
それまでにも(酪農家を取り込み原料乳を確保するため)飲ませ食わせ、はありましたが、現金で原乳が動くのは、初めての経験でした。 |
アイスクリームバブルは早々に溶けてしまい、練乳価格は暴落。強気の買い付けを行った会社の哀れな末路。この練乳不況は全国規模であり、多くの事業者を苦しめた。
他の酪農・乳業史も、当時の困窮について言及する。例えば山梨瑞穂乳牛農協(みづほ牛乳)さんなど、閉塞打開のため市乳を商い始めた、という流れも生じている。
― 参考情報 ―
古谷乳業・成田工場の紙栓
/ 同・千葉工場
/ 同・銚子工場
(牛乳キャップとは)
同・成田工場(1)
(2) (3) / 千葉工場 /
銚子工場
(牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
同・紙パック製品
(愛しの牛乳パック) / 同・販促コップ
(牛乳グラス☆コレクション)