創業は明治34年、県下有数の老舗にして、地元資本では最大規模を誇るローカル乳業さん。販路は店舗小売・家庭宅配に加え、学校給食納入が約130校に及ぶ。拠点を構える新潟市を中心に、周辺一帯における知名度は抜群だ。
掲載は往年流通の2種。(2)番は昭和50〜60年代、色物(コーヒー・フルーツ)/加工乳向けと思しき一本。たぶん200cc増量前は、白牛乳も包含する(ほぼ全種の)共通ビンだっただろう。
◆新潟市のミルクプラント事情
昭和30年代、旧市域には6メーカーが操業、さらに郊外4社も進出、各シェアを争った激戦区。飲用牛乳は塚田牛乳と明治乳業新潟工場がそれぞれ約35%、市場の7割を押さえる両巨頭であり、僅差のトップ目は塚田さんだった。
残りは雪印乳業新発田工場(閉鎖・H13年)、昭和乳業(市乳撤退・H20年)、新潟酪農牛乳と桃林舎(廃業・S40年代)、早川牛乳店(製造撤退・H10年頃)、周辺郡部の酪農協…が続く。大半は既に無きブランド、塚田さんの確固たる存在が際立つ。
◆草創期から戦後企業化の流れ
「牛が好きで、当時貴重だった牛を飼い始めた」塚田甚太郎氏が、郷里の西頚城郡名立町(現・上越市名立区)で搾乳販売に着手したのが明治34年。大正13年に飛躍を期して消費地である新潟市に移転、鋭意ご商売を伸ばしていく。
・株式会社塚田牛乳
(新潟・フランス協会)
戦後の法人化を経て昭和47年、二代目・甚一郎氏の急逝で社長に就任した妻・實津江氏は、もともと地元でカネボウ勤務の傍ら洋裁教室を営み、のちに規模拡大・独立して「塚田服装専門学校」を設立、その経営を手掛ける実業家だった。
◆塚田實津江氏・塚田医学奨学基金
夫の稼業にはノータッチ、全くの畑違い。古参の重役は「素人の手出し無用、なるべく会社に来ないで…」と漏らす始末。それでも責務を果たすべく日々出社、現拠点の新設など要所で手腕を発揮。平成3年に至るまで、塚田牛乳の看板を守った。
この間、生徒数の減少した洋裁学校を閉じ、清算後の残金一億円を新潟大学医学部に寄付。今なお塚田医学奨学基金が若手研究者を援ける。
◆現行ビン製品・学乳専用瓶装について
紙パック充填ラインの設置は昭和43年、県下初の導入で全国的にも早い。前年、新潟地震による工場損壊が生じ、再建と同時に据え付けの好機と見たか。一方で昔ながらの各種ビン詰めが存続、ポリフード(一部シュリンク)+紙栓仕様で残っている。
学校給食用委託乳に専用ビンを使う、今となっては稀有なメーカーさん。従前は大手を中心に運用例が多かったものの、市販品と学乳(中身は同じ)に異なるデザインの瓶容器を用いるところは、現在は特殊と言っても良いほど珍しくなった。
・学校給食用ビンを新しくしました
(公式サイト・平成24年)
・学校給食用びんのデザインが新しくなります!
(同上・令和5年)
・2015年5月17日号特集「給食のつくり方」
(朝日新聞GLOBE)
◆親戚筋の上越市・塚田乳業さん
初代・甚太郎氏の手伝いをしていた弟の塚蔵氏は、大正初期に高田市(現・上越市)に自らの牧場(支店)を興して独立。同銘「塚田牛乳」・丸に塚の字の同屋号で商いを始める。
より](Tsukada-T6.jpg) |
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画像上:塚田牛乳の広告[名立案内](大正6年)より…牛乳搾取のほか、花こうじ・味噌の製造も。この頃は初代・甚太郎氏が父から引き継いだ事業も併せ営んだ。高田市の支店が塚蔵氏の運営。 |
・新潟県に塚田牛乳が2社あった!? (塚田牛乳facebook)
・塚田乳業
(乳業探訪記) / 塚田乳業の情報
(ごった煮)
・創業者 塚田甚太郎のおじいさんは凄腕だった
(公式サイト)
恐らく経営面に特段の繋がりはなく、戦後は各々別法人を成し、それぞれの道を歩んだ。事業規模(生産高)は常に、本家の半分に満たないくらいだったと思われる。平成19年に廃業。上越側の得意先・取引先は、本家の(株)塚田牛乳さんが引き継いだ。
― 参考情報 ―
塚田牛乳の紙栓(1)
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(牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
塚田牛乳
(乳業探訪記) / 塚田3.6牛乳 200mlパック (牛乳トラベラー)
「塚田牛乳・塚田カルセンド」のキャップ
(大器晩成を目指しつつ、手ぬぐい研究)
塚田牛乳の木箱 (牛乳グラス☆コレクション) / 塚田3.6牛乳サブレ
(All About)