クミアイ牛乳(三笠組合ミルクプラント)クミアイ牛乳(三笠組合ミルクプラント)

(記事下段)

クミアイ牛乳

(株)三笠組合ミルクプラント
北海道三笠市若松町13-74
広島硝子工業製・正200cc側面陽刻
昭和45〜50年頃

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かつて栄えた炭鉱都市・三笠の地場銘柄。3組合の協業・市内唯一のミルクプラントだったが、鉱山縮小による人口激減で、昭和50年代初期に廃業、ブランドは消滅。廃業前の5年間に、住民1万5千人が町を去っていた。戦前より盛んだった酪農も、今は退潮傾向が続く。

◆空知集治監の乳牛飼育

三笠の牛飼いは刑務所から始まった。明治15年、空知集治監が耕作役務・乳肉を兼ねる短角雑種を導入。21年には病囚の栄養補給や獄吏の飲用向けに初めて乳牛が持ち込まれ、鶏などの小家禽とともに自給体制を敷いたという。

また、近郊にあった札幌製糖会社・空知農場でも、この頃より組織的な飼育を実施。各試行錯誤を経て乳牛が一般農家に定着。大正末期には森永製菓(森永乳業)や北海道製酪販売組合連合会(雪印乳業)へ生乳出荷するまでに発展した。

◆三笠山ミルクプラントの誕生

こうした酪農基盤を背景に、昭和8〜9年頃、田屋万次郎氏は三笠山村で搾乳販売に着手。同11年、界隈の企業合同の気運を捉え、小笠原衆助氏、小荒井万吉氏ら地元同業者と連携。三笠山ミルクプラントを興し、集約処理・共販に乗り出した。

当地方において機先を制する合理化・近代化は一定の成果を挙げたものの、社会情勢と経済の混乱には耐え切れず、戦後間もなく工場は一旦閉鎖に至る。

◆(株)三笠組合ミルクプラントの設立

いっぽう三笠町の乳飼いは粘り強く、早々に復調。昭和21年に三笠酪農組合が成り、24年には三笠酪農業協同組合(団体名不詳・推定)も活動を始めていたようだ。

行政支援を受け、積極的に乳牛を増頭。20年代後期、いよいよ酪農は本格的な盛り上がりを見せる。必然、市乳処理施設のニーズも高じた。

昭和31年、町内の三笠農協、萱野農協、三笠酪農協の3者が相図り、共同経営の乳業会社として(株)三笠組合ミルクプラントを設立。休業していた田屋氏の三笠山ミルクプラントを継承・整備のうえ、「組合牛乳」の発売に漕ぎ付けた。

◆市乳事業撤退・農協のその後

以来20年に及ぶ商いも、前記の通り市況悪化で廃業、銘柄は消滅。昭和49年に三笠・萱野両農協は合併、三笠市農協が新規発足しており、恐らくこの際の事業見直し・不採算部門のリストラが少なからず影響しただろうと思う。

旧ミルクプラントの所在地には平成20年頃まで「よつ葉牛乳空知販売所」があった。三笠組合との関連は不詳ながら、とにかくも乳類の営業は続いていたようだ。なお、三笠市農協は平成5年に広域合併し、今はいわみざわ農業協同組合となっている。

◆参考・炭鉱街の牛乳屋さん

福利厚生、労働者とその家族の需要を満たすべく、鉱山独自のミルクプラント立ち上げ例も過去には複数ある。会社側の健康保険組合が営む乳業なども存在した。

ただし販路や生産量は限定的、炭鉱業の衰退にともなう早期の廃止が多く、牛乳瓶の現物は滅多に見つからない。漂流乳業掲載の“炭鉱銘柄”としては、福岡の日鉄ミルク(日鉄二瀬炭鉱・西田産業)のみ、かろうじて捕捉している。

― 関連情報 ―
展示室4-北海道の開拓と囚人 (三笠市立博物館)
大人の社会科見学-住友奔別炭鉱編 (西野神社 社務日誌)


昭10〜11頃> 三笠山ミルクプラントが発足
昭16> 三笠山ミルクプラント・田屋万次郎/北海道空知郡三笠山村大字市米知村字農区
昭17> 三笠山村は町制施行・改称して三笠町となる
昭20頃> 三笠山ミルクプラントは操業困難により運営停止

設立> 昭和31年、(株)三笠組合ミルクプラントとして ※三笠山ミルクプラント工場を承継
昭31> 田屋万次郎/北海道空知郡三笠町字三笠319
昭32> 三笠町は市制施行する
昭34〜36> (株)三笠組合ミルクプラント/北海道三笠市三笠319
昭39〜41> (株)三笠組合処理工場/同上
昭42〜50> (株)三笠組合ミルクプラント/北海道三笠市若松町13-7
廃業> 昭和51年前後
電話帳掲載> 「よつ葉牛乳空知販売所」⇒「藤根治療院」/同上
                        ※現在は鍼灸治療院?電話番号も三笠組合ミルクプラント時代と同じ
公式サイト> 三笠組合としては未確認

処理業者名と所在地は、[全国工場通覧]・全国飲用牛乳協会 [牛乳年鑑1957年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。電話帳の確認は平成25年時点。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



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