県東部、奥出雲エリアに牧場・工場を構える、創業60年余の現役メーカーさん。酪農を中核に据えた有機農業実践の先駆として、その理念とブランドが広く知られる。パスチャライズ・ノンホモ、山地酪農、日本では珍しいブラウンスイス種の飼養など、特色は数多い。
平成初年の頃、県下にはおよそ20軒のミルクプラントが操業していたが、今や本項の木次乳業と、島根中酪、クボタ牛乳さんの3工場を残すのみとなっている。
◆黎明期・牛乳屋と酪農家の合流連携
中国大陸で終戦を迎え、捕虜生活。佐藤忠吉氏が郷里・木次の町に帰ったのは、昭和21年のこと。のち療養4年間に及び、農事の傍ら余技の活路を模索する。
昔ながらの養蚕・炭焼きはもはや立ち行かない。鶏・豚・ヤギ・緬羊飼育の試行錯誤を経て、半ば縋るような想いで28年、のち木次町長を務める田中豊繁氏らと酪農に着手した。
やるからには直接販売の途を拓きたい。戦時に3軒が企業統合した地元牛乳商の互助組合(代表・板垣春市氏)に頼み込み、牛飼い有志とともに組合へ合流。こうして昭和30年、今に残る木次牛乳の原点というべき商売が始まっている。
◆酪農の普及と有限会社の設立
「ナベカマでガタガタ牛乳を煮て売るような」原始的なスタイルだったが、田畑仕事よりも収入効率は良い。数年のうちに一帯へ酪農が広がると、持ち込みが増える。木造倉庫みたいな工場では処理が間に合わず、また販路もなく、余剰乳はグリコ山陰協同乳業乃木工場へ卸した。
昭和37年、組合メンバーの合資により、木次乳業(有)を設立。きっかけは学校給食の牛乳を、脱脂粉乳から生乳に切り替えるよう働きかけたこと。主旨には賛同を得たが、取引都合上、寄り合い所帯では具合が悪く、会社法人を作ったのだという。
◆牛の病気多発・異常行動から有機農業へ転換
前後して、佐藤氏と酪農家仲間は、急速に有機農業運動へ舵を切る。何の疑いもなく牧草栽培に多用していた農薬・化学肥料が、乳牛に及ぼす悪影響を認め、使用を中止。飼料を見直すことで牛の健康状態が回復する手応えを得た。
周辺農家にも有機肥料の積極活用、土質改善の機運が波及。日本で一般に食品公害が叫ばれ、自然食品ブームが起こるのは、その10年後。木次の生産者の気付きは極めて早い。
こうした実践を広げたバックグラウンドには、当地の学校で校長・教師を勤め、のち私塾も主催した無教会派クリスチャン・加藤歓一郎氏の指導や、母乳・牛乳のDDT/ BHC汚染を指摘・問題提起した町医者の存在があったということである。
◆経営危機に瀕し佐藤氏が会社代表に
しかし安全な食品供給というポリシーが評価され、木次乳業が界隈に独自の地歩を確立するまでには相当の時間を要し、収支は苦しかった。昭和40年には処理工場が火災で全焼、経営は俄かに悪化。グリコからの買収提案も舞い込むが、下請け農民にはなるまいと、これを謝絶。
44年、ついに倒産寸前といった状況に至り、傘下酪農家に脱落者も出た。話し合いの結果、佐藤氏がほぼ全責任を負う格好で、木次乳業の運営を背負う次第となる。
◆地場組合・メーカーの合流と販売提携
厳しい環境のなかにあって、それでも木次乳業は奥出雲の旗艦ミルクプラントの役割を帯びていく。昭和46年に加茂酪農組合(大原郡加茂町)と恩田牛乳店(仁多郡三成町)、同50年には高野牛乳店(ヨコタ牛乳)(仁多郡横田町)の処理事業を統合。
継続困難となった地域ミルクプラントの受け皿となり、さらに複数の農協・酪農組合との業務提携を通じて、農民による生産直売の枠組みを、木次乳業が担保する格好になった。
◆消費者団体向け出荷の急増で基盤確立
小説「複合汚染」(有吉佐和子氏)の新聞連載が大反響を呼び、世間の意識が高まると、木次乳業は「信頼できる食品メーカー」として注目を集め始める。
昭和50年、「たべもの」の会(松江市)を皮切りに、消費者団体との提携・共同購入の契約が続々と成立。食品公害と健康を考える会(枚方市)、鈴蘭台食品公害セミナー(神戸市)ほか、関西・中国・九州方面の諸団体と繋がり、出荷量は飛躍的な伸びを示す。
従前は200ccビン換算で日販2千本程度だったが、昭和51年には5千本に増加、木次の代名詞ともいえる「パスチャライズ牛乳」を売り出した同53年には、1万本を超えた。こうして商売が軌道に乗り、現在、島根県下に残る乳業3社の、堂々たる一角を占めている。
― 関連情報 ―
食文化と地域社会
(総合研究開発機構-NIRA)
木次乳業の紙栓(1)
/ 同・(2)
(牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
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(愛しの牛乳パック)
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