◆「チチヤス」の語源は乳保(ちちやす)
チチは「乳」と「父」、ヤスは創業者・野村保氏の「保」の字から。母乳に替わって赤ちゃんを育てる慈愛の牛乳に、家長である保の名を合わせて乳保(ちちやす)という趣向。ご本人による命名とも、二代目・清次郎氏が提案したものとも言われる。
梵字風の初期トレードマーク(社章)は、いかにも仏教然としたデザイン。真宗安芸門徒の会社ゆえ、宗教的なアイコンと思い込んでいた。良く見ると「ちち」を二重円にかたどって囲いを作り、内側へ左右対称に整えた「やす」の字を並べた紋様だ。
◆宮内省御用達のチヽヤス牛乳
(1)(2)番瓶、「天皇皇后両陛下 御用命を賜った チヽヤス特別牛乳(バター)」の宣伝は幾分時代がかった調子だが、宮内省御用達の歴史は実際長い。最初のご注文は明治27年、日清戦争の際に大本営が広島第五師団に置かれた時に遡る。
当時、広島は上水道が未整備。体調を案じた側近が牛乳を勧め、陛下は水代わりに愛飲。「牛乳を飲むと体が牛臭くなる」「毛や角が生える」などと真顔で言った時代。天皇陛下ご飲用が市民に伝わると、イメージは劇的に改善、売り上げが伸びたという。
この日以来、チチヤスは大正・昭和・平成に至るまで、日本三景のひとつ厳島へ来訪の皇室・皇族方、また海外賓客へ牛乳や乳製品を供する栄誉に与っている。
◆ヨーグルトと特別牛乳の草分け
大正6年に発売されたチチヤスヨーグルトは、本邦の草分け的存在。朝鮮釜山にあった岩南洞獣疫血清製造所を視察の折、蠣崎千晴博士に製法を習い、牧場に帰ってブルガリア乳酸菌の純粋培養に取り組むこと3年、ついに完成に漕ぎ着けた。
チチヤスはこれを日本初のヨーグルトと銘打つが、すでに明治中期以降、少量ながら各地で商われた記録も残る(⇒発酵乳の歴史/日本乳業協会)。正確には「現存の乳業メーカーで最古」「中国地方に限れば一番乗りかも?」あたりのようだ。
いっぽう昭和13年、チチヤス特別牛乳・承認第一号は政府のお墨付き。特別牛乳は欧米の先進的な衛生管理に倣い、細菌数や脂肪分を厳しく設定した牛乳営業取締規則上の分類で、この基準をクリアできる業者さんは殆どいなかった。
◆観光牧場に始まったレジャー事業への進出
牛乳の普及宣伝のため、チチヤスは大正15年から観光業を始める。牧場と果樹園を拓いた対厳山は海に面し、厳島(宮島全景)を眼下に眺める景勝地。「野村の桃山・チチヤスの梅林」は大好評。旅行に遠足、夏は海水浴の人出で賑わった。
これを土台に戦後観光事業が本格化。冠高原スキー場の開発参入を皮切りに、昭和39年、天然地下水を利用したプール(ダイヤモンドプール)を目玉に据え、チチヤスハイパークを開園。のちゴーカートなど諸遊具を備えて地元に親しまれた。


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画像上:総合落成式(新工場・チチヤス大橋・ゴルフ練習場/ショートコース)(昭和48年)
画像下:チチヤスハイパーク「流れるプール」、左手は「ジャンボ三段滝すべり」(昭和60年)
展示用の航空機は2機種あった。パーク入口付近のJA6152(タウロン)と、園内プールに置かれたJA5113(コンベア240)。いずれも撤去・解体済み。[チチヤス百年]より |
昭和45年、国道に直結する「チチヤス大橋」(陸橋)を落成。同47年ゴルフ練習場併設、さらに芸北国際スキー場(山県郡北広島町)を開業。平成5年には18ホールを擁する鷹の巣ゴルフクラブ(廿日市市河原津)をオープンしている。
◆マスコットキャラ「チー坊」「チーちゃん」
ハイパーク宣伝入りの(4)番瓶「チーちゃん」こと二代目チー坊は昭和30〜50年代、(5)番以降の200cc瓶、麦わら帽子を目深に被った三代目は昭和40年代〜平成12年に活躍したマスコット。当代までのモデルチェンジは公式サイト内・歴代チー坊の変遷に詳しい。
(3)番瓶はテンガロンハットを被った謎のチー坊。描き方はサントリーのアンクルトリスに一寸似ている。上記の変遷史には未収載で、世代は良く分からない。現在は初代と四代目、五代目の3キャラクターを併用しているようだ。
過去パッケージの紹介コーナーなつかし商品(IAキャッシュ)に、色々な時代の顔ぶれが並ぶ。平成17〜19年頃には瓶詰めの復刻版チチヤスヨーグルトも出た。通常ビン製品は無地の軽量新瓶・プラ栓に移行して久しいが、近年の出荷動向は不明。