チヽヤス牛乳 (1)チヽヤス牛乳 (1) チヽヤス牛乳 (2)チヽヤス牛乳 (2)
チヽヤス牛乳 (1)

チチヤス酪農業協同組合
広島県佐伯郡大野町327-3
日本硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代初期〜中期
チヽヤス牛乳 (2)

チチヤス酪農業協同組合
広島県佐伯郡大野町327-3
石塚硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代初期〜中期

チヽヤス牛乳 (3)チヽヤス牛乳 (3) チヽヤス牛乳 (4)チヽヤス牛乳 (4)
チヽヤス牛乳 (3)

チチヤス乳業(株)
広島県佐伯郡大野町327-3
日本硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代中期〜後期
チヽヤス牛乳 (4)

チチヤス乳業(株)
広島県佐伯郡大野町327-3
日本硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代後期〜40年代初期

チヽヤス牛乳 (2)チヽヤス牛乳 (2) チチヤス牛乳チチヤス牛乳
チヽヤス牛乳 (5)

チチヤス乳業(株)
広島県佐伯郡大野町3207-3
石塚硝子製・正200cc側面陽刻
200cc移行後〜昭和46年頃まで
チチヤス牛乳

チチヤス乳業(株)⇒チチヤス(株)
広島県佐伯郡大野町3207-3
石塚硝子製・正200cc側面陽刻
昭和47年頃〜平成12年頃まで

原点は浄土真宗の信徒団体「闡教社(せんきょうしゃ)」。私学「光道館」の運営資金を調達すべく、明治19年「広島合資ミルク会社」を創業。県下随一の老舗だが、戦後レジャー事業への進出が仇となり、投資ファンド介入を経て現在は伊藤園の傘下だ。

チチヤス乳業の製品集合写真(昭和50年代)
画像上:チチヤス乳業の製品集合写真(昭和50年代)…懐かしいカラーリング。[チチヤス百年]より

牛乳屋さんのルーツには典型がある。練乳自給を目指す製菓会社、生産者主導の酪農組合、荒野開墾・食糧事情改善の取り組み、士族授産、牛乳需要に活路を見た純然たる個人起業…その発端が仏教団体に拠るケースは珍しい。

本項は前段に銘の由来やマスコットキャラ(チー坊)、宮内省御用の歴史、ヨーグルト発売、ハイパーク開業の個別テーマ、中段と後段に戦前・戦後の通史をまとめる。


◆「チチヤス」の語源は乳保(ちちやす)

チチは「乳」と「父」、ヤスは創業者・野村保氏の「保」の字から。母乳に替わって赤ちゃんを育てる慈愛の牛乳に、家長である保の名を合わせて乳保(ちちやす)という趣向。ご本人による命名とも、二代目・清次郎氏が提案したものとも言われる。

創業期〜昭和30年代初期の商標 「チチヤス」の旧ロゴ(2代目)
「チチヤス」現行ロゴ

昭和47年、それまで「チヽヤス」と書いた商標・商号を「チチヤス」に変更。上掲(5)番瓶は繰り返し記号廃止直前の世代だ。

画像左:創業期〜昭和30年代初期の商標
画像右:「チチヤス」の旧ロゴ(2代目)と現行ロゴ

梵字風の初期トレードマーク(社章)は、いかにも仏教然としたデザイン。真宗安芸門徒の会社ゆえ、宗教的なアイコンと思い込んでいた。良く見ると「ちち」を二重円にかたどって囲いを作り、内側へ左右対称に整えた「やす」の字を並べた紋様だ。

◆宮内省御用達のチヽヤス牛乳

(1)(2)番瓶、「天皇皇后両陛下 御用命を賜った チヽヤス特別牛乳(バター)」の宣伝は幾分時代がかった調子だが、宮内省御用達の歴史は実際長い。最初のご注文は明治27年、日清戦争の際に大本営が広島第五師団に置かれた時に遡る。

当時、広島は上水道が未整備。体調を案じた側近が牛乳を勧め、陛下は水代わりに愛飲。「牛乳を飲むと体が牛臭くなる」「毛や角が生える」などと真顔で言った時代。天皇陛下ご飲用が市民に伝わると、イメージは劇的に改善、売り上げが伸びたという。

この日以来、チチヤスは大正・昭和・平成に至るまで、日本三景のひとつ厳島へ来訪の皇室・皇族方、また海外賓客へ牛乳や乳製品を供する栄誉に与っている。

◆ヨーグルトと特別牛乳の草分け

大正6年に発売されたチチヤスヨーグルトは、本邦の草分け的存在。朝鮮釜山にあった岩南洞獣疫血清製造所を視察の折、蠣崎千晴博士に製法を習い、牧場に帰ってブルガリア乳酸菌の純粋培養に取り組むこと3年、ついに完成に漕ぎ着けた。

チチヤスはこれを日本初のヨーグルトと銘打つが、すでに明治中期以降、少量ながら各地で商われた記録も残る(⇒発酵乳の歴史/日本乳業協会)。正確には「現存の乳業メーカーで最古」「中国地方に限れば一番乗りかも?」あたりのようだ。

いっぽう昭和13年、チチヤス特別牛乳・承認第一号は政府のお墨付き。特別牛乳は欧米の先進的な衛生管理に倣い、細菌数や脂肪分を厳しく設定した牛乳営業取締規則上の分類で、この基準をクリアできる業者さんは殆どいなかった。

◆観光牧場に始まったレジャー事業への進出

牛乳の普及宣伝のため、チチヤスは大正15年から観光業を始める。牧場と果樹園を拓いた対厳山は海に面し、厳島(宮島全景)を眼下に眺める景勝地。「野村の桃山・チチヤスの梅林」は大好評。旅行に遠足、夏は海水浴の人出で賑わった。

これを土台に戦後観光事業が本格化。冠高原スキー場の開発参入を皮切りに、昭和39年、天然地下水を利用したプール(ダイヤモンドプール)を目玉に据え、チチヤスハイパークを開園。のちゴーカートなど諸遊具を備えて地元に親しまれた。

総合落成式(新工場・チチヤス大橋・ゴルフ練習場/ショートコース)(昭和48年)

チチヤスハイパーク「流れるプール」、左手は「ジャンボ三段滝すべり」(昭和60年)
画像上:総合落成式(新工場・チチヤス大橋・ゴルフ練習場/ショートコース)(昭和48年)
画像下:チチヤスハイパーク「流れるプール」、左手は「ジャンボ三段滝すべり」(昭和60年)
展示用の航空機は2機種あった。パーク入口付近のJA6152(タウロン)と、園内プールに置かれたJA5113(コンベア240)。いずれも撤去・解体済み。[チチヤス百年]より

昭和45年、国道に直結する「チチヤス大橋」(陸橋)を落成。同47年ゴルフ練習場併設、さらに芸北国際スキー場(山県郡北広島町)を開業。平成5年には18ホールを擁する鷹の巣ゴルフクラブ(廿日市市河原津)をオープンしている。

◆マスコットキャラ「チー坊」「チーちゃん」

(3)番瓶「チーちゃん」こと二代目チー坊は昭和30〜50年代、(5)(6)番瓶、麦わら帽子を目深に被った三代目は昭和40年代〜平成12年に活躍したマスコット。当代までの変遷は公式サイト内・チー坊の部屋に詳しい。

ハイパーク宣伝入りの(4)番瓶はテンガロンハットを被った謎のチー坊。描き方はサントリーのアンクルトリスに一寸似ている。前記ヒストリー上は未収載で、世代は良く分からない。現在は初代と四代目、五代目の3キャラクターを併用しているようだ。

過去パッケージの紹介コーナーなつかし商品(IAキャッシュ)に、色々な時代の顔ぶれが並ぶ。平成17〜19年頃には瓶詰めの復刻版チチヤスヨーグルトも出た。通常ビン製品は無地の軽量新瓶・プラ栓に移行して久しいが、近年の出荷動向は不明。


◆前々史・真宗安芸門徒の奮起

明治4年、浄土真宗の衰退に危機感を抱いた大高十郎氏ら門徒有志10名が、法話会「十名講」を開く。これを端緒に法門拡張の組織作りが進み、「天名社」-「特留社」-「愛国社」を経て明治12年、今に残る「闡教社」(闡教部)の成立を見た。

あわせて大高氏主宰の寺小屋を基盤に私塾「光道館」が出来、本格的な子弟教育が始まると、明治17年に至って私立小学校(※)に発展。

※当時名門と知られ、戦時は「光道国民学校」。原爆で生徒・教員多数を失い廃校した。法話会場「光道館」は戦後別途再建、今は(財)闡教部・光道会館。かつての小学校と同じ猫屋町にある。

闡教社には地元有力者・実業家が多数参与。チチヤス創業の野村保氏もそのひとり。熱心な信徒で、十名講発足以来の中心人物だった。地裁判事を退官後は育英事業に力を注ぎ、一時は光道館の塾長も務めたという。

◆光道館と広島合資ミルク会社

闡教社と光道館私立小学校の財源を確保するため、様々な事業が検討された。明治19年、その一翼を担う広島合資ミルク会社が発足。松本清助氏(肥料商、のち広島電気会社経営)を社長に迎え、保氏は発起人、取締役・会計係に就く。

まずは京都府立牧場と広島県立農学校より乳牛6頭を購入、搾乳販売に臨んだ。ところが牛乳の栄養など無理解の世情、売り上げは一日一合に終わることしばしば。仏教の慈悲の精神を掲げた事業に鋭意努力も、経営は苦しかった。

いっぽう小学校の運営は、その他の手当てを尽くした結果軌道に乗り、以後の見通しも立った。明治25年、ミルク会社は闡教社を離れ、野村亀助・保氏兄弟に移譲される。

◆広島ミルク会社と決別し野村鐵馬車へ

野村兄弟の広島ミルク会社となって以降、徐々に業績は上向く。山陽鉄道(山陽本線)の延伸、日清戦争に伴う広島の軍都化で消費人口が拡大し、また新商品の牛肉?ソップ(スープ)が牛乳以上の評判を得て、牧場の収益化に貢献した。

明治34年、牛の飼育・生産処理を亀助氏が、販売面を保氏が受け持つ体制で、躍進期の経営を固める。しかし、あくまで仏心に沿う働きをしたい保氏は、関係者との意見衝突を機に出直しを決心。翌35年、全権利を放棄して会社から身を引いた。

チヽヤス・野村鉄馬車の広告(明治38年)
画像上:チヽヤス・野村鉄馬車の広告(明治38年)…野村顕氏名義のちらし。「広島市内の牛乳販売元祖は父・野村保です」とアピールしている。[チチヤス90年の歩み]より

独立した保氏は配達用馬車を新調、自らの牛乳屋を「野村鉄馬車」と称す。白衣の御者・販売係が、蒸気汽罐を載せた鉄製の荷台を馬に引かせ、瓶詰め牛乳を客の目前で加熱殺菌しながら市中を回る、斬新な営業スタイルを現した名前だ。

◆清果園とチチヤスの誕生

明治37年、拠点構築に着手。大野村・対厳山に果樹業「清果園」と付設牧場を興し、牛乳部門の呼称(ブランド名)を「チヽヤス」に決定。飼料/肥料を自給可能な環境で乳牛・果樹育成を目指した、チチヤス牧場の誕生である。

清果園は果樹栽培部、生葡萄酒醸造部、チヽヤス牧畜部、生産品販売部の4部からなり、桃のような商品作物に重きを置いた。まだ牛乳メインではやっていけなかったのだろう。

◆同族組合から株式会社へ

明治41年に「野村共同組合」を結成。保氏は野村本家に借りていた土地・建物を買い取り、総部長・果樹園の運営を清次郎氏に、搾乳と牧畜は顕氏に、販売担当は観氏に、不動産管理を安代氏に…親子兄弟一族の協働体制を敷く。

保氏は銀行や電力会社にも携わったが、儲けの大半を教育事業に回し経済的な余裕なく、不退転の覚悟。基盤強化の挑戦は昭和5年、(株)チチヤスの設立に結実。会長に保氏、社長に清次郎氏を据え商いを乳業に絞り、後世に続く陣容が整った。


◆戦時は軍管轄下・原爆の日の牛乳配達

戦時は「暁第2955部隊」本部が牧場内講堂に駐留、間もなくチチヤス全部を管轄下に置き、社員はみな軍属の身となる。結果、必需物資(ガソリン・飼料)の優先配給に与かり、戦後まで乳牛80頭を維持、牛乳配達もかろうじて続けられた。

昭和20年、広島市に原爆投下。牧場は直接被害を免れたので、野村真一氏が牛乳をトラックに積んで牧場と市中心部を何度も往復。行き交う人々に手渡し、臨時救護所・役所へ届けた。氏は翌日、発熱とひどい下痢に襲われた…と回顧されている。

◆戦後の伸張・チチヤス酪農協とチチヤス乳業

昭和26年、戦後業界の趨勢に鑑み、チチヤスへ生乳出荷を行う広島県西部と山口県東部の酪農家を、チチヤス酪農業協同組合(組合長・野村慶一氏)に糾合。(株)チチヤスは乳業部門一切を組合へ移管、以降は観光事業に特化する。

同34年には、同じく慶一氏が社長のチチヤス乳業(株)を設立、チチヤス酪農協から集乳業務や工場設備の移譲を受け、漸次乳業部門を吸収。一連の継承行為は農地解放といった占領政策に応じつつ、資本的経営を模索したものだろうか。

東京チチヤス(株)工場(昭和60年)
画像上:東京チチヤス(株)工場(昭和60年)…[チチヤス百年]より

規模拡大は目覚ましく昭和41年、関西エリア初のテトラパック充填機設置、日本で初めてヨーグルトにプラ容器を採用、ワンウェイ化に先鞭をつける。59年、河本乳業(神奈川県相模原市)を傘下に収め東京チチヤス(株)とし、首都圏にも本格進出した。

◆多角化戦略の失敗と再建

本業は堅調に伸びるが、バブル崩壊でレジャー事業が低迷。莫大な設備投資と関係会社への貸付金でグループ経営は頓挫、傍系資産のリストラを開始。平成15年に芸北国際スキー場、翌16年にはハイパークを手放す(現・ちゅーピーパーク/中国新聞社)。

それでも220億の負債はままならず、平成17年、投資ファンド(クレセント・パートナーズ⇒ジェイ・ウィル・パートナーズ)に身を委ねた。18年、鷹の巣ゴルフクラブを売却、観光事業から完全撤退。野村家は去り、乳業部門は新設の「チチヤス(株)」が継承。

不採算部門だけを残した旧法人(チチヤス乳業)は「サンタ実業」に商号変更後、特別清算を終え平成18年に倒産。同年、チチヤス酪農協も解散している。

◆伊藤園の完全子会社へ

投資ファンドは水面下で、色んな相手とM&Aの交渉を重ねただろう。獲得者は、お〜いお茶の(株)伊藤園。平成23年にチチヤスの全株式を取得、完全子会社化した。

チチヤス株式会社の株式の取得(子会社化)に関するお知らせ (伊藤園IR) ※PDF

伊藤園はチチヤスが持つチルド商品の製造ノウハウ獲得を、チチヤスは伊藤園の販売網を活かし商圏拡大を狙う。取得額は100億円前後。かつて「クレセント・パートナーズ」がチチヤスへ出資の際、投資額は「100億円以上」と報道されていた。

大手飲料メーカーの乳業買収(出資支援)事例は、知る限りまだ少ない。昭和63年のアサヒビール(千葉・保証乳業)と、平成26年の日本キャンパック(埼玉・くじらい乳業)の2例くらいだが、今後もっと増えるのか。老舗のブランドが守られるなら嬉しいことだ。

― 関連情報 ―
チチヤス乳業の紙栓(1) / 同・(2) / 同・(3) (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
同・紙パック製品 (愛しの牛乳パック) / 同・宅配受箱 (なおのブログ)
同・受箱 (むにゅ’s のぉと) / チチヤスハイパーク (アンディの生活)
牛乳工場跡 廿日市市大野 (広島-陽のあたらない所)
広島原爆戦災誌 (平和データベース) / 念仏の教えと企業 (POSTEIOS)
岡山畜産便り 昭和28年5月 チチヤス牧場を訪ねて (おかやま畜産ひろば)


■広島合資ミルク会社〜チチヤス乳業
創業> 明治19年、広島合資ミルク会社として
明25> ミルク会社は野村亀助・保氏に経営移譲される
明29〜30> 広島市広瀬町に本社・牛舎を設置
明34> 会社分割、野村亀助氏が「広島ミルク会社」の商号を継承、
          保氏は「野村鉄馬車」を名乗る(いずれも合名会社)。
明37〜38> 保氏は佐伯郡大野村に清果園と牧場を開拓
                牛乳部門の呼称(ブランド名)を「チヽヤス」に決定
明41> 保氏は野村共同組合を結成

昭04> チヽヤス・野村観/広島県広島市広瀬町
設立> 昭和5年、(株)チヽヤスとして ※母体は野村共同組合、乳業事業に一本化
昭09> 野村顯/広島県佐伯郡大野村
昭10〜16> (株)チヽヤス/広島県広島市北榎町 ※営業所?
昭20> 戦時の強制疎開で大野村に拠点を集約
昭25> 大野村は町制施行する
昭26> チチヤス酪農業協同組合が発足、(株)チヽヤスより市乳事業を承継

昭31> チチヤス(株)・野村慶一/広島県佐伯郡大野町
昭34> チチヤス乳業(株)設立、チチヤス酪農協より市乳事業を漸次承継
昭34〜36> チチヤス酪農業協組/広島県佐伯郡大野町327-3
昭39〜41> チチヤス乳業(株)/同上
昭42〜平04> 同上/広島県佐伯郡大野町3207-3
平13> 同上/広島県佐伯郡大野町338-1
平17> 経営難により投資ファンドの再建支援を受け入れ
          チチヤス(株)新規設立、チチヤス乳業(株)より市乳事業を承継
          大野町は廿日市市に編入される
平18> チチヤス乳業(サンタ実業)とチチヤス酪農協は倒産・解散

電話帳掲載> チチヤス(株)/広島県廿日市市大野337-4
公式サイト> http://www.chichiyasu.com/

■河本乳業⇒東京チチヤス
創業> 不明ながら戦前
昭09> 河本三三/神奈川県高座郡大野村淵野邊
昭16> 大野村は周辺町村と合併し、相模原町となる
昭29> 相模原町は市制施行する

設立> 昭和28年、河本乳業(株)として
昭31> 河本乳業(株)・河本三三/神奈川県相模原市淵野辺526
昭34〜44> 河本乳業(株)/神奈川県相模原市淵野辺926
昭46〜58> 同上/神奈川県相模原市淵野辺4-38-22
                    ※昭和55年にチチヤス乳業が資本参加、59年に小会社化・商号変更
昭59〜平04> 東京チチヤス(株)/同上
廃業・閉鎖> 平成13年前後
電話帳掲載・公式サイト> 未確認


処理業者名と所在地は、[広島商工案内]・[広島県商工人名録]・牛乳新聞社「大日本牛乳史」・全国飲用牛乳協会 [牛乳年鑑1957年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。電話帳の確認は平成19年時点。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



漂流乳業