戦前の農民資本・産業組合に端を発し、戦後は長良川酪農農協を母体として、約20年間に渡り商われた県南のローカルブランド。昭和46年、地元メーカー各社が連帯・協業、太洋乳業協同組合(太洋牛乳)を立ち上げ。間もなく独自銘柄は廃止されている。
掲載は漫画調のデフォルメ牛さんに、「よい子に
よいちち」と牧歌的なキャッチを添えた一本。学校給食向けのビンだろうか。古い牛乳キャップにも瓶と同じイラストが登場、実に可愛らしい構え。この牛さんが共営牧場のトレードマークだったようだ。
今なお(株)共営牧場は羽島市桑原町に健在。乳類販売(請け売り)に加え、酪農・生乳出荷を行っているかも知れないが、営業の詳細は良く分からない。
◆往年の治水工事で農村崩壊
明治から大正にかけて続いた、揖斐川・木曽川・長良川の大改修工事で、流域農村の姿は激変。河川敷と堤防確保のため田畑の強制買収を喰らい、農民の耕地は大幅に減った。
とりわけ羽島の桑原・川並一帯の喪失が酷かった。政府の代替地提供が一向に履行されないうえ、多くの農民が土地代金を預け入れた地元商業銀行が経営破綻、集落全体が没落。当時、住民の3分の一あまりが前途を悲観し流散したという。
◆長良川・河川敷酪農の始まり
残った人々は放棄地を束ねて農事に励むが、それでも狭すぎ、話にならない。しかしここで、新しく生まれた河川敷の草原、一面に茂る葦に目につける人が現れた。
明治37年、桑原村西小薮の岡田貫一氏は、名古屋の搾乳業者から仔牛を7円で買い、長良川の河川敷に放牧。自生の青草を喰わせ、2年掛かりの育成に成功。大きく育った牛を、搾乳業者が今度は50円で買ってくれた。
まずは自然の野草だけで出来るから負担は少ない。噂を聞いた人々が徐々に取り組み始め、中小藪、大須、八神ほか周辺部落にも広まり、桑原は酪農の盛んな村になっていく。
◆育成専業から自家搾乳・直接販売へ
名古屋・京阪神の預託牛を受け入れ、育成して売却、の流れが定着。ところが筋悪な業者もおり、貧乏農家の台所事情を見て、不利な条件を呑ますことしばしば。「預託の仕組みは業者都合ばかり、立派に育てた挙句、すぐ手放すのも馬鹿らしい」。
大正初年、充分な経験を積んだ先駆の岡田氏は、搾乳・生乳出荷に臨み、本格的な酪農がスタート。昭和8年、大須・西小薮に共同搾乳所と市乳処理工場を開設。牛飼い有志の桑原乳牛販売購買利用組合が成って、ついに直売の途を拓いた。
◆長良川酪農・共営牛乳(株)の誕生
戦後、組合は新規メンバーを迎え、長良川酪農農業協同組合(羽島市桑原町大須)に組織を改める。この頃は疲弊・窮乏により、市乳事業は中断していたようだ。
昭和20年代後期、練乳の自社生産を図るグリコ製菓(グリコ協同乳業)と提携。共栄牛乳(株)を合資設立し、練乳工場を作った。これが昭和30年にグリコ東海乳業(株)へ発展、グリコ初のミルクプラント、グリコ牛乳の元祖となる。
同時期に長良川酪農は、自らの市乳処理工場を羽島市足近町に新設。共栄牛乳として商いを再開。昭和32〜33年頃に商号を(株)共営牧場に変更、ブランドもそれに準じた。共栄・共営の含意は共に栄える・農民共同経営というところか。
◆同業者連帯し太洋乳業協同組合へ
昭和46年、共営牧場を含む地元中小メーカーは、設備の近代化・経営基盤の拡充を期し、太洋乳業協同組合を旗揚げ。製造は組合の新工場が担い、各社の旧工場は漸次閉鎖。銘柄も「太洋牛乳」へ統一されていった。
その移行期、「共営」銘は一部アイテムで存続する。参画中トップクラスの処理量、知名度が高かったらしい。特定の販路に向けて数年間、太洋乳業の製造で残ったようだ。
共営牧場の母体・長良川酪農は昭和43年、県南酪農農業協同組合に進展。県立大須家畜保健所の廃止を受け、家畜診療・人工授精業務を継承すべく諸施設を譲受。陣容拡大のうえ鋭意運営も、平成10年代末に解散へ至っている。
― 謝辞 ―
太洋乳業への参画・現況など、kazagasira様よりご教授・ご協力頂きました。
― 参考情報 ―
太洋乳業協同組合・共営牧場の紙栓
(牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
同・紙栓
(牛乳キャップとは)