地場有数の食品会社さんが、戦後40年ほど商ったローカル銘柄。商標は優雅に舞う二羽の鶴。飛来地・山形ならではのデザインだ。
経営多角化を期した披露宴会場の運営を経て、昭和55年、(株)ナウエルを別途設立し、冠婚葬祭事業に本格参入。のち60年頃に市乳処理・食品加工部門は廃止されている。「北陽牛乳」は発売元・製造会社を変えながら存続も、平成10年代には終息に至った。
◆アミノ酸醤油から総合食品企業へ
創業者は地元出身の酒井巌氏。戦後、独立起業を志し、米沢織・繊維業界の重鎮であった、佐藤織物(株)の佐藤徳助氏に支援を仰いで、東北食品化学工業(株)を立ち上げ。
食糧難の折柄、占領政策として増産指示が出ていたアミノ酸醤油(大豆消費量を抑えた化学合成の代用品)の認定工場を建設。昭和22年頃より操業を開始する。
合成醤油の商いは順調に伸びたが、原料事情は徐々に改善。技術の進歩で更に安価な調味液も現れる。昭和20年代末には醸造醤油に切り替え。清涼飲料水・冷菓・麺類・漬物など製造品目を多角化。前後して北陽食品工業(株)へ改称した。
◆市乳事業へ進出・米沢ヤクルトの派生
昭和30年頃、需要拡大の著しい牛乳・アイスクリームの製販に着手。市内にあった吾妻牛乳、井上牧場、米沢酪農農協のミルクプラントは、森永乳業の進出を受けて系列化・撤退相次ぎ、間もなく北陽食品が米沢唯一のメーカーとなる。
当時、森永側から請け売り・業務提携の話も持ち込まれただろう。しかし北陽牛乳は昭和39年、乳酸菌飲料ヤクルトの販売事業に乗り出し、既存販路を活かした展開で大成功を収める。営業好調の結果、中央資本の吸収を免れたらしい。
ヤクルト部門は昭和40年代中期、米沢ヤクルト(株)として独立。北陽食品の工場にヤクルト製造ライン(ボトリング設備)を据え、53年頃までは自ら生産も手掛けた。
◆冠婚葬祭互助会事業への転換
社業は食品関係に留まらず、昭和40年には結婚披露宴の会場運営を始め、これが現業、冠婚葬祭全般を取り扱う互助会、(株)ナウエルの創始に繋がっていく。
昭和60年頃、市乳処理を中止。「北陽牛乳」は他社の製造に変わった。委託先は日本製乳、次に福島乳業(福ちゃん牛乳)、最後は福島県酪連(酪王牛乳)と遷移している。
いっぽう販売者の名義は、当初の数年間は北陽食品工業だが、程なく諸権利を譲渡したようだ。引き継ぎ会社は(株)宏和物産(※)で、のちに米沢ヤクルト(株)の後身である米沢ヤクルト販売(株)が受け持つという経過を辿った。
※北陽食品と米沢ヤクルトは、出資者の佐藤徳助氏や、そのご兄弟・宏助氏が代表を務めた。宏和物産も同系だろう。昭和58年、佐藤家はヤクルトに専念すべく、北陽の株式を酒井巌氏に売却し、道が分かれた。
― 参考情報 ―
わが交遊録 Vol.32-父が残してくれたもの (米沢日報・酒井彰氏)
米沢商工会議所の新会頭に就任・酒井彰さん (米沢興譲館同窓会)
酒井彰氏の野望とその背景 (よねざわ鬼の会)
戦後のしょうゆ事情とアメリカへの輸出再開 (キッコーマン国際食文化研究センター)
北陽食品工業の紙栓 (牛乳キャップとは) / 同・紙栓 (CapLab)
同・紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)