つぶらな瞳、坊やのポーカーフェイスが印象的な、往年の仙台ローカル銘柄。昭和30〜40年代に流通の全世代が揃ったと思う。最初期の印刷ビンと思しき(1)番は、精悍な牛の表情がニヒルな味わいの、スケッチ風イラスト。ちょっと怖い感じもするが…。
創始は後の仙台市長(3代目)、早川智寛氏。東北の酪農事業をリードした先駆。地元名士・実業家としてその名を歴史に刻む。
◆頓挫した開墾地を早川氏が承継
牧場の原点は明治14年、蔵王山麓・遠刈田地方(刈田郡の七日原・清水原・鬼石原一帯)に、旧薩摩藩士の内務卿・松方正義氏(※)が発意の開墾事業まで遡る。原野に植林100万本、150頭の馬を養う遠大な試みだった。
※松方氏は日田県(大分県)知事時代の「養育館」における牛乳利用の試み(⇒岩尾牛乳)、栃木県那須野ヶ原の千本松農場(現・千本松牧場)開拓(明治21年)など、牧畜との関わりが深い。
松方氏は莫大な資本を投下も成果挙がらず、間もなく一切を同郷の種田精一氏に託す。しかして種田氏もすぐ匙を投げ、明治25年、早川智寛氏が全てを譲り受けた。
早川氏は開墾途上の原野に牧場・農場を整備。下総御料牧場および海外から家畜を移入。市乳需要を見込み、明治30〜40年代には仙台市花壇(評定河原)で乳牛飼育を始め、牛乳、バター、チーズやヨーグルトの製造販売に順次着手した。
◆仙台市内の河川敷で牛飼い
この早川搾乳所を筆頭に、仙台中心部を流れる広瀬川沿いには、かつて複数の牧場が営まれた。戦後の様子を伝える貴重な記録が、仙台市の「広瀬川ホームページ」にある。
・広瀬川の記憶 vol.07―昭和30年代、暮らしの舞台は橋と川だった
・広瀬川の記憶 vol.12―牛越橋のたもとで、50年前の風景をさがす
・広瀬川の記憶 vol.17―広瀬川の河原で、のんびりと牛が草を食んでいた
早川牧場の上流に今野牧場(米ヶ袋下丁26・昭和45年頃に自家処理中止、49年廃業)、下流域に愛光舎工藤牧場(中島丁77・昭和32年廃業)が存在。みんな川原に放牧し草を喰わせ、道路を牛群が移動して糞が転がっても苦情ひとつ出ない時代の話だ。
今や現地は東北大学のグラウンドや市営の野球場へ変わり、周辺に高層マンションが立ち並ぶ。土手を掘り返せば欠けた古瓶の1、2本も埋まっているだろうか。
◆宮城県牛乳事業協同組合の設立
昭和43〜44年頃、県下の中小メーカー32社が、宮城県牛乳事業協同組合(みやぎ牛乳)を結成。早川ミルクプラントは同組合の工場に転換。組合の理事長は(株)早川牧場の社長さんで、立ち上げの中核を担った様子をうかがえる。
早川牧場はこの頃までに、地元財界の雄・佐藤利吉氏を代表に迎えた。氏は佐利総本家(牛たんの店・佐利)の起業や、宮城学院の理事長を務めたことで知られる、仙台の重鎮だ。(⇒佐利さんご召天/週報短文・IAキャッシュ)
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画像上:佐利総本家の広告「禁酒の牛すき焼部」(昭和40年)…[基督教年鑑 1966年版]より。佐利氏はクリスチャンだった。 |
早川智寛氏の没後、家督と人脈を継いだ万一氏は、牧地管理・乳業経営のほか、地元金融界、工業界でもご活躍。佐利氏とも交流・縁あっての招聘か。完全な経営交代ではなく、あくまでオーナーは早川家の形だったと思われる。
◆早川牧場の倒産・廃業
協同組合の成立後も、販社として(株)早川牧場は存続。しかし昭和52年、「一部放漫経営がたたって」倒産。負債額は14〜15億円。会社再建の神様と謳われた早川種三氏は、往年のオピニオン誌「諸君!」の対談で辛辣な見解を披露する。
「本家の甥の子供が経営。私は2〜3年前に取締役を辞めたが、格好の悪いニュース」「忠告を聞き入れなかった」。氏は戦後、多くの破綻企業で管財人を務め、再生に貢献した著名人、かつ早川家の人。神様も身内は別問題、とだいぶ揶揄されたらしい。
種三氏は取引先銀行の再建依頼も断った。盟主は落伍したが、別法人である組合は平成10年前後まで事業を続けている。仔細は「みやぎ牛乳」の項に譲りたい。
― 関連情報 ―
早川牧場の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
早川牧場の思い出(3) (一大のブログ) / 評定河原球場 (はつひだファンクラブ野球課)
広瀬川散歩(花壇〜大手町)その1 (ペンギンの足跡II)