明治〜大正の最盛期は、福島県下の支舎(生産・営業拠点)10ヶ所、さらに仙台、宇都宮にも進出した「厚生舎グループ」。掲載瓶は須賀川・白河・郡山に、昭和40〜50年代まで残った3系譜。戦後、各ミルクプラントは独立経営に移行。その姿を変えていく。
合併/撤退の消長を経て、昭和50年代中期に牛乳屋として「厚生舎」の屋号を掲げる事業者は居なくなり、ついにブランドは絶えた。
◆前史・御料地策定と宮内省御開墾所
岩瀬牧場の起源には諸説ある。伊藤博文が欧州視察で見聞した新式農場に感銘を受け、帰国後に創設を決したエピソード。あるいは明治天皇が東北巡幸の際、福島の一帯に広がる原野の開墾を促して誕生との、やや神話めいた逸話…。
ともあれ現実的には、往時の政府が皇室基盤の強化を策し、全国に御料地を求めた動きによるところが大きい。明治13年、岩瀬郡鏡石村に宮内省林野局が「宮内省御開墾所」(岩瀬出張所)を開き、これが岩瀬牧場・厚生舎チェーンの母体になった。
◆厚生舎の原点〜「牧場の朝」の岩瀬牧場
鋭意開拓に着手も、予想以上の困難続きで成果は上がらず、多額の投資を呑むばかり。間もなく中央政府・宮内省はギブアップ。運営を県に丸投げし、明治23年には千葉県三里塚の御料牧場に注力すべく、当地より撤退。
この際、岩瀬郡域の御料地と農場設備・飼養家畜一切を、破格の安値で子爵・外務次官の岡部長職氏に貸し下げ、個人経営に変わる。岡部氏は再建に奮起、農牧組織を「順宜畜産会社」と改め、その舵取りにあたった。
日本初の西欧風実験農場、文部省唱歌「牧場の朝」のモデル(※)…今なお同地に存続する岩瀬牧場の礎は、明治中期の積極的な牛馬・海外技術の輸入で確立した。
※新聞記者・杉村楚人冠の作詞とされるが、モデルになった牧場も含め、確定に慎重論もある。
◆牧場の法人化・厚生舎チェーンの確立
永年努力も事業は振るわない。岡部氏は宮内省の承諾を得て、財界・華族の資本と人材を容れる。明治40年、会社法人を設立。牧場は東京・麹町に本社を置く順宜牧畜(株)、43年に改称して日本畜産(株)の直営とし、開墾30年の節目に勝負をかけた。
系列支店たる「厚生舎」を、第一から第十二まで次々立ち上げ、地元で細々と牛乳を売り歩く原始的な商いを刷新。大正2年の広告(日本畜産・純良牛乳販売所の絵びら/アド・ミュージアム東京)を基準に、遷移は下段にまとめた。
各支舎は岩瀬牧場より泌乳期の乳牛を借り受け、搾れなくなったら返却。販売実績に応じて、また別の牛を取り寄せる。岩瀬牧場が繁殖・孕み牛を一括管理し、「厚生舎」フランチャイズにレンタル料を求める供給システムだった。
◆日本畜産株式会社時代の躍進
市乳販売は日量総計10石(約1,800リットル)、岩瀬牧場産バターは関東・関西方面に販路を伸ばす(遠くは奈良ホテルにも納品した)。乳牛400〜500頭に達し県下飼育の半数を占め、山形には「第二製乳所」を設けて増産体制を築く。
畳み掛けるような営業攻勢、合理的分業で界隈を席巻した厚生舎グループ。しかし広域展開に隙も多かったか、大正期の不況で収支は悪化。昭和4年、経営は福森利房氏、同8年に遠藤三郎氏へバトンタッチ。なお復調に至らず、時代は過ぎた。
戦後は農地解放で規模を縮小。西武鉄道グループの保有を経て、昭和26年に日本畜産は解散(※)。のち福島県知事が用地を譲受。42年、実業家・小針暦二氏が諸権利を買収して(有)岩瀬牧場となり、現在は(有)イワセファームとして営業が続く。
※乳牛や市乳処理施設は、西武園ミルクプラント/ユネスコ牧場(埼玉県所沢市)に移された。
◆昭和戦後の厚生舎の流転(1)
昭和40〜50年代に統廃合が進み、「厚生舎」ブランドの市乳は絶えた。過去資料を用い掲載瓶の来歴を辿ると、「第一厚生舎」の後身は(有)厚生舎・須賀川営業所が該当。「第十二厚生舎」は後の(株)厚生舎・郡山ミルクプラントだと分かる。
第一(須賀川)、第二(福島)、第八(白河)の代表者さんはいずれも遠藤姓。かつて日本畜産(株)の社長を務めた、遠藤三郎氏の縁故だろう(第八担当の一郎氏は甥)。
商号や法人格・拠点呼称の相違に明らかだが、戦後はグループがばらけ、オーナー単位で独立した様子を窺える。経営変動の煽りで、岩瀬牧場の乳牛貸与システムも漸次廃止。昭和20年代後半には、もう機能していなかったはずだ。
◆昭和戦後の厚生舎の流転(2)
福島市新町の「第二厚生舎」は(株)厚生舎・福島支店へ改組。地元農協や周辺メーカーと手を組み、福島乳業(株)(福ちゃん牛乳)を新たに立ち上げる。
「福島支店」自体は昭和48年頃に(株)福島厚生舎と改称。アイス工場を平成初年まで操業した。かつての本社は(株)厚生舎・郡山ミルクプラントで、福島と郡山は親子関係だ。
「第一」と「第八」の後身は(有)厚生舎(須賀川/白河営業所)。昭和40年代に乳類製造から撤退後、場所替えして健康食品やミネラルウォーターの商いに転じ、平成20年の破産・廃業をも乗り越え、現在は(株)厚生舎として健在。伝統の屋号を唯一留める。
◆厚生舎3系譜の掲載瓶について
とぼけた表情が可愛い須賀川の牛さん。全く同じイラストを山形県の鈴木牛乳さんも使っており、これは乳業資材の代理店が用意した定型らしい。「厚生」とだけ書かれた水色の八角瓶は、たぶん白河厚生舎の取り扱いだ。
郡山牛乳は昭和52年頃まで、粘り強く「厚生舎」名義で市乳処理を続けた最後の砦。くだけた調子のロゴタイプと、ちんまい牛さんの大名行列…字面を詰めたあしらいの一本。
比較的最近まで生産実績があったことと、恐らく一般に入手しやすい小売ルートが生きていた好条件が重なり、牛乳キャップコレクター諸氏に広く押さえられている「厚生舎」ブランドである。(⇒郡山牛乳の紙キャップ/ほどほどCollection)
◆会津厚生舎と竹山ミルクプラント
大正〜昭和初期に存在しなかった「厚生舎」拠点が、戦後?の福島に新しく3軒できている。日本畜産(株)時代の晩年、移動もしくは新設されたようだ。
往時の岩瀬牧場は貸牛制度維持のため、仔牛の育成を農家へ委託。特に会津方面の請け負いが多く、地域に牛飼いの営みが定着する。まず会津若松、のち喜多方にも現れた会津厚生舎は、そんな背景に基づく起業と想像できる。
加えて安達郡二本松町には、「厚生舎・竹山ミルクプラント」が勃興。仔細不詳ながら、この拠点は長続きせず、昭和35年前後に廃業・消滅した。
― 謝辞 ―
鈴木様より須賀川市・(株)厚生舎の沿革仔細をご教授頂きました。
― 参考情報 ―
福島県における牛乳産業の展開 (地理学評論-Vol.47)
福島県岩瀬牧場の近代化産業遺産としての再評価 (ランドスケープ研究-Vol.75)
日本畜産専用軌道(須賀川市・鏡石町) (街道Web)
岩瀬牧場は、唱歌「牧場の朝」のモデルと言われるが (キャンピングカーで放浪の旅II)
牧場の朝 (池田小百合 なっとく童謡・唱歌)
郡山牛乳のノベルティーコップ (牛乳グラス☆コレクション)