地元におよそ70年、「萩原」の看板を守り続ける、県西部・津軽地方の現役メーカーさん。読みは本来「はぎはら」だが、近年は通りの良い「はぎわら」に変えている。
県下では平成10年代、明治と雪印、両社の分工場が合理化で全部閉鎖。また、弘前市内に粘り強く残っていた老舗2軒(三上牛乳、長尾牛乳)も、平成20年代に相次ぎ廃業。結果、青森最大規模かつ、界隈唯一のミルクプラントとなった。
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画像上:萩原乳業の製品集合写真(昭和60年代〜平成10年頃?)…まだ瓶詰めが残っている。ラインナップは普通牛乳に加工乳のデラックスとローヤル、乳飲料のコーヒー。 |
◆北海道で夢破れ、青森に定着
創業者の萩原国蔵氏は、千葉県の生まれ。若き日に家を飛び出し、新天地・北海道に自立を求めたが、あえなく挫折。失意の帰路、青森でリンゴの出荷が盛んな様子を目にする。
その活気に感じ入って弘前に留まると、リンゴの種苗・肥料商を興し、戦中〜戦後の間に大成功を収めた。しかし何しろ同業者の競争激しく、長期的な展望が描けない。国蔵氏は当時消費の急伸していた牛乳・乳製品に着眼。商売替えを決意する。
※なお、創業前後の経過については、「鉄道ジャーナル」2018年11月号(通巻625号)掲載の連載コラム「ミルクを飲みに行きませんか(第7回)」の直接取材記事に詳しい。
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画像上:萩原乳業の会社広告(昭和35年)…この頃はまだ全て低温殺菌。瓶詰めラインの写真は不鮮明でビンのデザインは分からないものの、掲載(1)番と同時代。[弘前商工名鑑]より。 |
◆原点は弟さんの萩原乳業
故郷の千葉では、弟の勝代氏が戦前より牛乳販売店を営み、昭和27年には萩原乳業(株)(市川市行徳町、のち協永乳業)を設立、自家処理に臨んでいた。
国蔵氏は工場の立ち上げに際し、技術支援/経営指南を勝代氏に仰いだらしい。千葉・青森ともブランド・マークは同一で、青森側を特に「萩原乳業・弘前工場」と称した時期もある。
この頃、青森では酪農普及・生乳生産の増加を背景に、新規ミルクプラントが続々勃興。昭和27〜28年に、計18社が起業の活況を呈した。いっぽう萩原牛乳の始祖と言うべき千葉の勝代氏は、昭和45年前後に廃業され、歴史は絶えて久しい。
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画像上:萩原乳業の会社広告(昭和44年)…どういった次第でか、ロゴマークの文字が「HAGIHHRH」になってしまっている。こんな誤植?も珍しい。[弘前商工名鑑]より。 |
◆発展期・学校給食で基礎固め
昭和38年、学校給食用委託乳に参入。前出の市内老舗2軒は既存の家庭宅配にこだわって、自治体の納品依頼を謝絶。萩原が相当量の出荷枠を得て、事業規模は拡大。
明治〜大正来の古参メーカーは、市街に確固たる顧客基盤を持ち、卸し値の安い学校向けに懐疑的なスタンスを取る場合も多かった。学乳への積極的な取り組みが後の盛衰に繋がった例は、全国に散見される(⇒参考:神奈川・タカナシ乳業)。
◆工場の移転・現行ラインナップ
広告に標示の通り、国蔵氏は牛乳処理場を弘前駅前に据えたが、業容を増すにつれ手狭となってきた。そんな折、明治乳業青森工場(弘前市大久保・昭和39年開設)が撤退・閉鎖したため、敷地建物を譲受。昭和55〜56年に拠点を移している。
現在、飲用牛乳は紙パック製品のみ。瓶詰めはラインナップを減じつつ、平成10年代初期に無くなったようだ。商標は幾度かリニューアルも、伝統の構えを強く残している。
― 関連情報 ―
萩原乳業の紙栓
/ 協永乳業の紙栓
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萩原乳業(株) (津軽弘前 異業種交流グループ ととの魁)
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