創始は大正末期の老舗。晩年は主に森永牛乳販売店さんとしての営業か、仔細は不詳。平成20年代に廃業されている。平成10年度の乳業施設再編合理化で自家処理より撤退後は、秋田協同乳業(森永系列)が製造を請け負っていた。
秋田協乳が東北森永乳業に集約された平成19年頃、鈴木牧場に委託替え?「武藤」銘の大瓶一種のみ、最後まで残ったらしい。
◆岡村丙子郎氏による創業
武藤牛乳のルーツは大正15年、岡村丙子郎氏の開業した牛乳店に端を発する。氏は地元の酪農指導に携わった功労者。農学校教師から秋田県庁勤めに転じ、結核病検査員や種畜場技手、牧野係の働きを通じて、基盤形成に貢献した。
熱心なキリスト教信徒であり、社会運動家・賀川豊彦氏の思想に共鳴、私生活においては禁酒禁煙を貫く。婦人矯風会へも参画し、廓清会秋田支部の幹事を務め、廃娼運動および娼婦の救済・更生に尽力したことも知られている。
◆役人時代の大奮闘
明治末期、強引に進められた官民有地区分事業(国有林化)の結果、官有地での放牧・採草はご法度に。「これを冒せば容赦なく厳重なる処罰または銃殺を厳命」という過酷な状況下、牛飼いの営みが萎縮。飼養頭数の大幅な減退が生じた。
「牛亡国論」を唱え強硬排除を叫ぶ官憲も現れるなか、岡村氏は敢然と林野解放を求め、農商務省に上申書を提出、当局に現地調査をさせる。役人の枠組みに囚われない精力的な活動は、県下畜産史上の語り草となっている。
◆国有林の恐怖・牛飼いの受難
この頃、国有地に牛を入れるのは、草を喰わせるような意図はなくても、本当に危険な行為だったらしい。秋田県大仙市・荒川鉱山に育った小説家の松田解子氏は、大正末期の実体験を[女人回想](平成12年)に書き綴る。
当時、松田氏の義父が飼う乳牛2頭の面倒見を任されたが、夜になっても牛が家に戻っていなかった。「起きろ、これから牛探しだ。官行の山さでも入ってみれ、罰金どころでなくなるだ」…と叱りつけられ、真夜中の山中へ牛探しに駆り出されたそうだ。
◆武藤良治へのバトンタッチ
岡村氏は大正15年に退官、齢50にして酪業の実践に挑む。秋田市長野下新町に自ら牛乳屋を開き、市民の栄養改善と消費組合運動に取り組んだ。武藤良治氏は昭和5年、このお店で働き始める。初期は需要に乏しく商いは低調だった。
わたし(注:武藤良治氏)が牛乳屋をはじめたのは、昭和5年でしたが、当時はごく一部の人々に限られていて、配達をして歩いても1町内に、1〜2軒の家庭でしか飲んでもらえませんでしたが、たまに牛乳を飲むとそれを大きく自慢するほどでしたから一般に広く普及していなかったわけです。
(⇒「あきた」通巻24号-昭和39年5月1日/秋田県広報ライブラリー) |
ご子息が東京に移住したため、岡村氏も隠退を期に上京する。その際、武藤氏は牛乳屋の権利一切を格安で譲り受け、ここに武藤牛乳店が生まれた。のち法人化、消費拡大を受け、昭和50年前後は日配三千本の規模と伝わる。
岡村氏が秋田を離れた時期は判然としない。ただ、廓清会の機関誌[廓清]に、度々同県の廃娼運動について寄稿されており、それが昭和15〜16年を境にローカルな内容ではなくなっている。たぶん稼業の手仕舞いも、その頃だろうと想像できる。
― 参考情報 ―
武藤乳業の紙栓
(牛乳キャップとは)
同・紙栓
(牛乳キャップ収集家の活動ブログ) / 武藤乳業
(おいしいものミッケ)