◆伊豆諸島最大規模を誇った三宅島酪農
温暖な気候と日本屈指の降雨量に恵まれた三宅島は、四季を通じて自然の牧草が絶えない畜産好適地。古くは明治時代より乳牛飼育が行わわれてきた。
先駆は神着村の浅沼家。明治31年にホルスタインを取り寄せ繁殖に注力。同43年、内地業者と提携のうえバター製造に乗り出し、大成功を収める。これを契機に畜産は俄然注目を集め、後続の牛飼いが次々に現れたという。
大正8年には三宅島畜牛畜産組合が発足。ゼルシー種、エアーシャ種の導入ほか様々な取り組みで本格的に発展。最盛期は島内飼養3,000頭に及び、同業の盛んだった大島や八丈島を凌ぐ規模で、酪農は三宅島の基幹産業に躍り出る。
◆戦時疎開で壊滅・戦後バター製造で復活
しかし戦争末期、住民の島外疎開で状況は暗転。隆盛は幻のごとく、島の牛飼いは壊滅。粘りの復活劇は戦後。食糧事情の悪化・農産物の高騰、食嗜好の西洋化、全国的な酪農ブームに支えられ、三宅の地に再び乳牛が集結する。
数年間の奮闘で一挙2,000頭まで戻し、戦後ピークの昭和24年前後は、牛さえ一頭飼っていれば誰でも楽に生活ができた。原動力は伝統の「三宅バター」。本土東京に出荷すると、物資欠乏の後押しもあって飛ぶように売れた。
ところが順風満帆のウシ稼業は長続きしない。元来コスト面で離島の商品は圧倒的に不利だ。内地酪農・乳業の発展、食糧生産の復調につれ、市場の優位を失い、販売量は急減。三宅島の酪農熱は急速に冷め、以降下落の一途を辿っていく。
◆農協の設立と市乳事業の展開
翻って昭和22年、島内各村の農業会は解散、地区毎に5つの農業協同組合が成立。製酪(バター)工場を運用したのは神着農協と坪田農協の2組合だ。
既に昭和12年、神着エリアでミルク給食を実施の記録も残るが、戦時疎開から昭和30年代初期まで、島内の市乳処理は中絶。搾乳全量はバターに回っていたらしい。
33年前後に前記2組合が学校給食向け飲用乳に着手。掲載の「坪田牛乳」は、この頃の流通か。40年、全農協の合併で三宅島農協が誕生、商い銘柄を「三宅島牛乳」に一本化。翌年にミルクプラントを新設し、神着・坪田の老朽工場は廃止されている。
◆牛乳の製造中止と噴火災害
かくて市乳供給を一手に担った三宅島農協さんだが、島内酪農は活気に乏しく、原料乳調達に難渋のところ、島の観光産業が俄かに大ブレイク。
自力生産では来島需要を満たせず、市販のブリックパックは外部仕入れ、三井農林乳業(府中市)への製造委託品だ。平成10年頃、「三宅島牛乳」の自家処理より撤退。穴埋めは他社のロングライフ牛乳を船便で入荷、の形になった。
・子豚を育てる小学校 (中央畜産会-ちくさんナビ Vol.8) ※掲載終了
・三宅島村営牧場(牧場公園)・七島展望台・雄山の眺め (ありの木)
続いて平成12年8月、三宅島噴火。降灰と泥流で村営牧場は大打撃を蒙り、島内飼育の乳牛は過半が斃れる。ついに避難命令が出ると、生き残った牛の一部は貨物船で東京都畜産試験場に搬送された。住民に帰島許可が下りたのは平成17年だった。
◆不屈の精神・古瓶復活の三宅島牛乳
三宅島農協さんは昭和50年代に瓶詰めを中止、紙パックに移行。離島ゆえ廃棄費用の嵩む大量の空き瓶を工場に残置した。近年、ご当地の土木業・伊豆緑産さんが事務所として借り上げた際、これらの廃品活用を試み、意外な復活を遂げる。
古瓶に適量の土・肥料を充填、さんきらい(サルトリイバラ)と呼ぶ蔓草を挿し植えた、お土産の「観葉牛乳瓶」だ。店頭販売は正大ストアー(三宅島本店)さん、三宅島ハート会ショップさんで、“一鉢”800円。島外には渋谷の花屋さん・葉花での取り扱いがあった。
島の知名度も相まって、「三宅島」銘入り廃瓶の再生利用は魅力的なアイデアと思う。しかし地元では記憶が薄れ、意外に懐かしがられず、ちょっと不完全燃焼なのだとか。
※平成19年時点の情報です。現在“サルビン”の積極的な販売は行われていません。
― 参考情報 ―
三宅島から緑の産業を創造発信・(株)伊豆緑産 (同社公式サイト)
三宅島の産業 (三宅村商工会) / 苦難の三宅牛 年末にも二世 (東京新聞) ※IAキャッシュ
三宅島農協の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ) / 同・紙栓 (牛乳キャップとは)