三宅島牛乳 (山帰来コラボ・愛称サルビン)
三宅島牛乳 (山帰来コラボ・愛称サルビン)

(株)伊豆緑産 (三宅島農協の廃瓶再生利用)
東京都三宅島三宅村坪田3506
三宅島から発信する森業(もりぎょう)謹製 ※仔細下段
平成19年

坪田牛乳 (1)坪田牛乳 (1) 坪田牛乳 (2)坪田牛乳 (2)
坪田牛乳 (1)

坪田農業協同組合
東京都三宅島三宅村大字坪田
石塚硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代中期
坪田牛乳 (2)

坪田農業協同組合
東京都三宅島三宅村大字坪田
大和硝子製・正180ml側面陽刻
昭和30年代後期

三宅島牛乳 (1)三宅島牛乳 (1)

伊豆大島に同じく、かつては三宅島も酪農王国だった。戦前最盛期の乳牛飼養は三千頭に達し、諸島最大規模を誇る。

昭和30〜40年代は坪田農協と神着農協の2組合が、牛乳やバターを各々商い。上掲は前者、坪田牛乳である。

昭和40年、島内農協が全部合併、三宅島農協の「三宅島牛乳」へ。細やかなラインアートに「リリー印」。島の名産・ユリの英名(Lily)だ。

(この項下段に続く)

三宅島牛乳 (1)

三宅島農業協同組合
東京都三宅島三宅村坪田
大和硝子製・正180ml側面陽刻
昭和40年代初期

三宅島牛乳 (2)三宅島牛乳 (2) 三宅島牛乳 (3)三宅島牛乳 (3)
三宅島牛乳 (2)

三宅島農業協同組合
東京都三宅島三宅村大字坪田
ユニオン硝子工業製・正180cc側面陽刻
昭和43年頃〜200cc移行まで
三宅島牛乳 (3)

三宅島農業協同組合
東京都三宅島三宅村大字坪田
ユニオン硝子工業製・正200cc側面陽刻
200cc移行後〜昭和50年代

三宅島牛乳 (紙パック・市販用)
三宅島牛乳 (紙パック・市販用)

三宅島農業協同組合(三井農林乳業の受託製造)
東京都三宅島三宅村坪田3506
日本テトラパック製・200ml表・裏面印刷
昭和50〜60年代

三宅島牛乳 (紙パック・学乳用)
三宅島牛乳 (紙パック・学乳用)

三宅島農業協同組合
東京都三宅島三宅村坪田3506
日本ツーパック(山陽パルプ)製・200ml側面印刷
昭和50〜60年代

◆伊豆諸島最大規模を誇った三宅島酪農

温暖な気候と日本屈指の降雨量に恵まれた三宅島は、四季を通じて自然の牧草が絶えない畜産好適地。古くは明治時代より乳牛飼育が行わわれてきた。

先駆は神着村の浅沼家。明治31年にホルスタインを取り寄せ繁殖に注力。同43年、内地業者と提携のうえバター製造に乗り出し、大成功を収める。これを契機に畜産は俄然注目を集め、後続の牛飼いが次々に現れたという。

大正8年には三宅島畜牛畜産組合が発足。ゼルシー種、エアーシャ種の導入ほか様々な取り組みで本格的に発展。最盛期は島内飼養3,000頭に及び、同業の盛んだった大島や八丈島を凌ぐ規模で、酪農は三宅島の基幹産業に躍り出る。

◆戦時疎開で壊滅・戦後バター製造で復活

しかし戦争末期、住民の島外疎開で状況は暗転。隆盛は幻のごとく、島の牛飼いは壊滅。粘りの復活劇は戦後。食糧事情の悪化・農産物の高騰、食嗜好の西洋化、全国的な酪農ブームに支えられ、三宅の地に再び乳牛が集結する。

数年間の奮闘で一挙2,000頭まで戻し、戦後ピークの昭和24年前後は、牛さえ一頭飼っていれば誰でも楽に生活ができた。原動力は伝統の「三宅バター」。本土東京に出荷すると、物資欠乏の後押しもあって飛ぶように売れた。

ところが順風満帆のウシ稼業は長続きしない。元来コスト面で離島の商品は圧倒的に不利だ。内地酪農・乳業の発展、食糧生産の復調につれ、市場の優位を失い、販売量は急減。三宅島の酪農熱は急速に冷め、以降下落の一途を辿っていく。

◆農協の設立と市乳事業の展開

翻って昭和22年、島内各村の農業会は解散、地区毎に5つの農業協同組合が成立。製酪(バター)工場を運用したのは神着農協と坪田農協の2組合だ。

既に昭和12年、神着エリアでミルク給食を実施の記録も残るが、戦時疎開から昭和30年代初期まで、島内の市乳処理は中絶。搾乳全量はバターに回っていたらしい。

33年前後に前記2組合が学校給食向け飲用乳に着手。掲載の「坪田牛乳」は、この頃の流通か。40年、全農協の合併で三宅島農協が誕生、商い銘柄を「三宅島牛乳」に一本化。翌年にミルクプラントを新設し、神着・坪田の老朽工場は廃止されている。

◆牛乳の製造中止と噴火災害

かくて市乳供給を一手に担った三宅島農協さんだが、島内酪農は活気に乏しく、原料乳調達に難渋のところ、島の観光産業が俄かに大ブレイク。

自力生産では来島需要を満たせず、市販のブリックパックは外部仕入れ、三井農林乳業(府中市)への製造委託品だ。平成10年頃、「三宅島牛乳」の自家処理より撤退。穴埋めは他社のロングライフ牛乳を船便で入荷、の形になった。

子豚を育てる小学校 (中央畜産会-ちくさんナビ Vol.8)
三宅島村営牧場(牧場公園)・七島展望台・雄山の眺め (ありの木)

続いて平成12年8月、三宅島噴火。降灰と泥流で村営牧場は大打撃を蒙り、島内飼育の乳牛は過半が斃れる。ついに避難命令が出ると、生き残った牛の一部は貨物船で東京都畜産試験場に搬送された。住民に帰島許可が下りたのは平成17年だった。

◆不屈の精神・古瓶復活の三宅島牛乳

三宅島農協さんは昭和50年代に瓶詰めを中止、紙パックに移行。離島ゆえ廃棄費用の嵩む大量の空き瓶を工場に残置した。近年、ご当地の土木業・伊豆緑産さんが事務所として借り上げた際、これらの廃品活用を試み、意外な復活を遂げる。

古瓶に適量の土・肥料を充填、さんきらい(サルトリイバラ)と呼ぶ蔓草を挿し植えた、お土産の「観葉牛乳瓶」だ。店頭販売は正大ストアー(三宅島本店)さん、三宅島ハート会ショップさんで、“一鉢”800円。島外には渋谷の花屋さん・葉花での取り扱いがあった。

島の知名度も相まって、「三宅島」銘入り廃瓶の再生利用は魅力的なアイデアと思う。しかし地元では記憶が薄れ、意外に懐かしがられず、ちょっと不完全燃焼なのだとか。

※平成19年時点の情報です。現在“サルビン”の積極的な販売は行われていません。

― 参考情報 ―
三宅島から緑の産業を創造発信・(株)伊豆緑産 (同社公式サイト)
三宅島の産業 (三宅村商工会) / 苦難の三宅牛 年末にも二世 (東京新聞) ※IAキャッシュ
三宅島農協の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ) / 同・紙栓 (牛乳キャップとは)


大04> 前々身となる畜産組合が発足(呼称不明)
昭18> 組合は戦時統制により農業会に統合される

昭22> 坪田村農業会 製酪工場・浅沼金一郎/東京都三宅島坪田村下竹尾
             ※同時期の別資料では代表者を寺本順一郎氏としている
昭23頃> 農業会を母体に坪田村農業協同組合が成立
昭23〜30> 坪田村農業協同組合/同上 ※バター工場
                     ※26〜29年は三池忠信氏、30年は木村毅氏が代表者に挙がる
昭31> 坪田村は周辺2村と合併し三宅村となる
昭33頃> 飲用牛乳の製造販売(市乳事業)を開始
昭34〜40> 坪田農業協同組合/東京都三宅島三宅村大字坪田
昭40> 島内5農協が合併し、三宅島農業協同組合となる
昭41> 三宅島農協は坪田地区小倉に製酪工場を新設

昭41> 同上 ※改称反映せず
昭42〜56> 三宅島農業協同組合/同上
昭59〜平13> 同上/東京都三宅村坪田3506
                        ※平成10年頃に操業中止と見られるが、名簿上は残存
平13> 三宅島農協を含む伊豆諸島の6農協が合併、東京島しょ農協となる
平28> 東京島しょ農協は三宅島支店を廃止

自家処理撤退・独自銘柄廃止> 平成10年頃?
電話帳掲載> 三宅島農業協同組合/東京都三宅村坪田3082 ※当時
                   東京島しょ農協 三宅島支店/三宅島三宅村神着313-1 ※当時
                   (株)伊豆緑産/東京都三宅村坪田3506
公式サイト> 東京島しょ農協・三宅島支店としては未確認

処理業者名と所在地は、[全国工場通覧]・日本食糧新聞社 [食糧年鑑]・[日本乳業年鑑]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。電話帳の確認は平成19年時点。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



漂流乳業