旭印牛乳

旭印乳業社の会社広告(昭和46年)

画像上:旭印乳業社の会社広告(昭和46年)…売れ筋のデラックス(加工乳)を筆頭にラインナップを掲載。[道東要覧]より。
旭印牛乳

(株)旭印乳業社
北海道釧路市柳町19
日本硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代後期

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戦後の酪農ブームと市乳需要の拡大を背景に、地元の農地委員会長や釧路市議を務めた酪農家・野菜農家の小野栖禄氏が、昭和34年に起業したミルクプラント。

一帯には既に雪印が進出も、同じく34年に勃興した競合メーカー・農民資本の丹頂ミルクとともに、十円牛乳を引っ提げて新規参入。12円が相場だった市域へ大旋風を巻き起こし、2社の創業年末、釧路の牛乳消費量は2〜3倍に伸びたという。

最盛期は日産6万本(一合瓶換算)の処理施設を構え、堂々の大商い。しかし約12年間の操業を経て全事業を売却、「旭印」銘は廃止に至っている。

旭印乳業社の会社広告(昭和43年)
画像上:旭印乳業社の会社広告(昭和43年)…デラックスの瓶装写真を掲載。「高脂肪の/旭印牛乳/デラックス」と書かれている。[釧根地方要覧]より。

◆「釧路牛乳」工場への転換

昭和46年、釧路農協連合会は、白糠町農協(ホクレン牛乳)と丹頂乳業(旧・丹頂ミルク)、旭印乳業社を買収・統合。旭印の工場を借り上げ、「釧路牛乳」の展開を始める。

紙容器導入や内地への出荷など、旧社単体での実現は難しく、中小共倒れの懸念があった。もとより関係各社は全て(酪)農業に従事する生産者が経営主体。大型化・集約化を促す市場環境にあり、将来を見据えた積極合併だ。

間もなく釧路農協連は、釧路・根室地区21組合から成る北海道酪農農協連合会(北酪連)に市乳事業を譲渡・移管。以降の動きは非常に慌ただしい。

◆道内乳業・大再編の波

昭和47年、移管先の北酪連は北見農協連と連携し、道内農系プラントの大同団結を図る北海道農協乳業(株)(現・よつ葉乳業)に出資参画。市乳処理・販売部門を統合の一方で、旧旭印の工場は暫定的に自主運営を継続した。

よつ葉サイドはそれとして、釧路市大楽毛に根釧(こんせん)工場を新設、48年に操業開始。同一商圏で、同系2工場のバッティングが生じる。旧旭印「釧路牛乳」工場は老朽化も進み、市場競争激化で採算は悪化の一途を辿った。

昭和50年、北酪連の要望に応じ、よつ葉が完全吸収。新設の根釧工場に生産を集約する形となって、翌51年、ついに柳町の工場の火は落ちる。

◆今も釧路に残る「旭印」の商標

旭印乳業社の二代目・小野由勝氏は、昭和46年の3社合併後、釧路牛乳時代にも製造部長の肩書きで運営に参与。51年の閉鎖まで同職を務められたと思う。自社は解散済みながら、「旭印」マークはご商売を変え、今なお残っている。

牛乳瓶のルーツを訪ねて2 / 旭印乳業社について (このガラスビン知りませんか?)
東家史C「井東-札幌東家本店」系 (宅飲み放浪記)

氏のご家族は地元で著名な竹老園・東家総本店―札幌東家寿楽の暖簾分けで蕎麦屋さんを開店。かつての工場至近に「東屋 旭」の暖簾を掲げる。軒先の看板、箸袋に牛乳瓶と全く同じ「旭印」が受け継がれ、往時の家業が偲ばれる。

― 謝辞 ―
本項の掲載瓶、各種資料につき、MAKI様、fuji様にご教授・ご協力頂きました。


設立> 昭和34年
昭36> 旭印牛乳(株)/北海道釧路市鳥取町19 ※同年、(株)旭印乳業社へ改称
昭39> (株)旭印乳業社/北海道釧路市柳町19
昭40〜44> 同上/北海道釧路市柳町8
昭46> 釧路農協連合会に買収され、同会の市乳工場となる
          間もなく経営は北海道酪農農協連合会に移管される

昭46〜47> 釧路農協連合会 市乳工場/北海道釧路市柳町8-5
昭48〜50> 北海道酪農農協連合会 市乳工場/同上
昭50> 北海道農協乳業(株)に全事業を移管、翌年に工場は閉鎖
独自銘柄廃止> 「旭印」銘は昭和46年の廃止
工場閉鎖> 昭和51年
電話帳掲載・公式サイト> 旭印乳業社としては未確認

処理業者名と所在地は、食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



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