瀬戸牛乳瀬戸牛乳

(記事下段)

瀬戸牛乳

瀬戸牛乳商業協同組合⇒瀬戸牛乳(株)
愛知県瀬戸市川端町2-7
大和硝子製・正200cc側面陽刻
昭和40年代後期〜50年代

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岐阜と県境を接する尾張の北東部、陶磁器の生産で知られる瀬戸の町に、戦前来65年余り稼働したミルクプラント。瀬戸市域を代表するローカル銘柄だったが、平成13〜14年度の乳業施設再編合理化に応じて工場を閉鎖、その歴史に幕を下ろしている。

掲載は昭和50年代流通の一本。最晩年まで同様デザインで推移、学校給食でお馴染みの顔だった(同30年代のペコちゃんバージョン/特集-海賊瓶)。店仕舞いした瀬戸牛乳の販路を継いだのは名古屋牛乳。同社もまた工場を閉じて久しい。

◆瀬戸牛乳商業組合の発足

原点は遡ること昭和12年、旧・東春日井郡下で牧場や牛乳店を営む地元の老舗・搾乳業者さんらが結成した商業組合に端を発する。これは恐らく牛乳営業取締規則の改正で近代化・合理化を迫られた結果だと思うが、経緯仔細は明らかでない。

参画者は内田忠蔵氏(内田牛乳店)、東野二一氏(東野牧場)、大澤卯三郎氏(大沢牧場)ほか。市会議員を長く務めた方も複数おり、地元名士の面々だろう。

◆傘下酪農協と会社法人の設立

戦後は商業協同組合への改組を経て、昭和30年代中期には瀬戸牛乳(株)を設立。瀬戸牛乳の主導によって瀬戸酪農業協同組合も成り、足場固めが進んだ。

しかし一帯の酪農は古今冴えが見られない。牛飼いが本格化するのは戦後、解放された軍用地へ入植した農家の健闘で昭和28年、約800頭に達すも、ここで頭打ち。40年代に入って名古屋のベッドタウン化が進行すると、以降は減少の一途を辿った。

◆今も残る東野牧場の古い門柱

瀬戸牛乳は消費人口の増加に対し、お膝元での生乳生産が追い付かず、後年は域外調達の割合も高くなっていたと見られる。平成12年に至っては、傘下酪農協を含む県下10組合が合併、愛知県酪農農業協同組合となり、統廃合の波が着実に迫っていた。

現在、川べりの工場跡地は綺麗なマンションに建て替わり、往時の面影は全くない。一方で市内赤重町には、大正8年に創業し、のち瀬戸牛乳を支えた立役者の一人、「牛乳搾取業 東野牧場」を記した石造りの門柱が、東野家に今なおひっそりと残っている。

― 関連情報 ―
瀬戸牛乳の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ) / 瀬戸牛乳 (乳業探訪記)
瀬戸牛乳の宅配受け箱 (牛乳箱を訪ねて)


昭09> 大澤卯三郎/愛知県東春日井郡旭村
          内田忠蔵/愛知県東春日井郡瀬戸町 ※瀬戸町は昭和4年に市制施行も未反映

設立> 昭和12年、瀬戸牛乳商業組合として ※一帯の牧場・牛乳販売店の合同
昭14> 瀬戸牛乳商業組合・内田忠蔵/愛知県瀬戸市大字今656 ※「今」は旧・旭村
昭31> 瀬戸牛乳商業協同組合・大沢卯三郎/愛知県瀬戸市陶原町6
             ※昭和20年代、旧組合を母体に商業協同組合を結成、
                その際にミルクプラントを陶原町に新設したと見られる。

昭34〜36> 瀬戸牛乳(株)・東野二一/愛知県瀬戸市陶原町6-9
昭39〜平13> 同上/愛知県瀬戸市川端町2-7
電話帳掲載> 同上 ※平成12年当時
廃業> 平成14年、乳業施設再編合理化による
公式サイト> 未確認

処理業者名と所在地は、牛乳新聞社「大日本牛乳史」・[商業組合一覧]・全国飲用牛乳協会 [牛乳年鑑1957年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



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