白川郷・合掌造りの集落として有名な、越中五箇山のローカル乳業。発売は昭和45年と遅い出足、この時期の新設は全国的にも珍しい。以来40年、地域の学校児童や観光客に親しまれたが、平成25年に廃業され、ブランドは消滅している。
◆西や東の大名主さん
江戸の昔、平村には「西」の屋号で呼ばれる西家があり、それに対して「東」と名付けられた、東家が興る。幕末の頃は集落で一番広い屋敷を構えて住み、家勢隆々を誇った。
明治30年代初期、東家は農事の傍ら牛飼いを始める。まずは1〜2頭を繋いで農耕使役と厩肥作りに用い、また搾乳を行って自家消費したようだ。大正〜昭和に至っては酪農の体裁が整い、生乳出荷や余乳の分譲にも乗り出しただろう。
◆平牛乳の誕生
しかし乳業への進出は極めて遅い。往時の当主・東太左氏が経営を拡大し、ミルクプラントを設置のうえ「平牛乳」を売り出したのは、昭和45年のことだった。
既に大資本の寡占が進み、市場は成熟段階にある時代。個人の市乳処理工場立ち上げは、結構なチャレンジだ。たぶん何か、状況改善の目的、理想があったと想像する。
販売エリアは概ね五箇山に限られたが、学校給食と旅客の需要に支えられ、家族経営の規模を守り、長らくのご商売として定着。過去実績は不明ながら、平成期の処理量は一日200〜300リットルといい、全量を自家搾乳で賄われていたと思う。
◆掲載ビンについて
前記の通り平成25年に事業撤退。処理委託やブランド移譲もなく、銘は消滅した。かつての「たいら牛乳」取り扱い店舗では、近在の水口ミルクプラントさん製品に切り替えた所が多いようだ。(⇒たいら牛乳1Lパック/牛乳トラベラー)※コメント欄参照
力強い版画風の五ヶ山(人形山?)、注ぐ牛乳はさながら豪雪の白。掲載瓶は平成初年に現地の商店で購入。要冷蔵に加え「10℃以下」の併記があってしかるべき世代なのだが、埼玉の秩父牛乳さんほか、未標示だったメーカーも散見される。
― 関連情報 ―
たいら牛乳の紙栓
(牛乳キャップ収集家の活動ブログ) / 同・紙栓
(牛乳キャップとは)
五箇山荘
(かつこわーるど) / たいらコーヒー (こきりこ)※IAキャッシュ