戦前〜戦後の約17年間に渡って商われた、浜松のご当地銘柄。掲載はいずれも昭和30年代の流通品。初代の印刷瓶装と思しき(1)番赤瓶と、(2)番黄緑瓶は後継デザインか、あるいは色物・加工乳向けだったか、ちょっと判別がつかない。
中核は明治乳業で、発足時に資本の過半を拠出。直系子会社ではないため、浜松牛乳として独自ブランドを展開した。それでも明治の代紋・アサヒマークに“浜”の字を据えた商標は、大株主を強く意識した構えだろう。
◆原点は明治乳業主導の統制会社
設立は昭和17年。戦時の企業整備令に基づく、浜松牛乳統制(株)が振り出し。すでに磐田市中泉へ進出していた明治乳業を筆頭に、浜松市内に販路を持つ同業者25名が集結した、大所帯の船出だった。
翌18年に新工場を落成、「浜松牛乳」の生産・出荷がスタート。間もなく「統制」の文字を外して浜松牛乳(株)と改称する。もとより参入各社は顧客を開拓済み、独占企業ゆえ業績は安定。販売日量は1万3千本に達した。
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画像上:浜松牛乳の会社広告(昭和29年)…ビンが写っているものの、柄は良く見えない。 |
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画像上:浜松牛乳の本社正門(昭和30年)…上掲の広告にも写真があるが、建物の様子が結構違う。 |
◆戦後の存亡危機を救った菓子類
しかし浜松は米軍の空襲で大打撃をこうむる。社屋・工場は直接被害を免れたが、あらゆる物資が欠乏、集乳量は激減。原料不足で製品を満足に作れない。戦後、市乳処理は一日わずか1,000本まで落ち、会社の解散も検討されたという。
そこで昭和21年以降、三河湾で水揚げされる天草の寒天「三色ゼリー」、附近で収穫できるサツマイモ(芋粉)を使った羊羹や即席しるこ、夏季にはアイスキャンディー、別会社を設立のうえ、パンや各種の食糧品を手掛け始めた。
急場しのぎの多角化だったが、駅売りで好評を博し、本業である牛乳部門の赤字を補って余りある業績を挙げ、浜松牛乳は消滅の危機をどうにか乗り越えていく。
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画像上:浜松牛乳の取り扱い製品一覧(昭和57年)
大半は明治ブランドだが、ダイエーのキャプテンクックやボランタリーチェーンのセルコなど、草創期のPB牛乳も並んでいる。[創業40周年を記念して](浜松牛乳/浜松明治牛乳販売・共刊)より。 |
◆浜乳ブランドの終焉
一帯の酪農が復興した昭和20年代末からは、要の牛乳部門が急速に伸びる。消費も極めて旺盛で、34年頃には日量5万本を超える大商いが常となった。
同時に乳業界は大手メーカーの地方進出・熾烈な販売競争はもちろん、全国に農協系生産者の勃興を見、予断を許さない市場争奪戦の様相を呈する。
浜松牛乳(株)は生乳調達や経営基盤の安定・強化を模索。昭和35年、販売部門を分割して浜松明治牛乳販売(株)を興し、工場は明治製品の請け負いに集中する方針を採った。この際、大半の独自アイテムを廃止、浜松牛乳の銘は無くなっている。
◆浜乳ラクトン・フルーツヨーグルト
例外的に残った自社オリジナル商品もあった。昭和42年まで「浜乳ラクトン」(乳酸菌飲料・35cc壜詰)、「浜乳オレンジジュース」(180cc壜詰)を併売。さらに昭和50年代まで「浜乳フルーツヨーグルト」(100cc壜詰)が存続した。
往年の「浜松牛乳」の紙栓は、牛乳キャップコレクター諸氏の捕捉率が極めて低い。対して唯一「浜乳フルーツヨーグルト」の大判キャップだけは見る機会に恵まれる。恐らく上記の流通事情により、比較的残存しやすかった…ということだろう。
◆晩年は子会社化・工場は袋井に移転
紆余曲折を経て、ご当地に60年余の歴史を刻んだ浜松牛乳。しかして集約合理化の波は果てしない。平成5年、明治乳業が完全子会社化すると浜松明治牛乳(株)へ改称、同15年には他の系列子会社と合併し、東海明治(株)に衣替え。
浜松市のミルクプラントは同年中に袋井市へ移転、一時代を終えた感がある。かつて独立の販社も平成13年に中部明販(株)傘下入り後、明治フレッシュネットワーク(株)に転換。のち中部エリアの宅配事業はフード・エキスプレス東海(株)が吸収している。
― 参考情報 ―
浜松牛乳の紙栓(1)
/ 同・(2)
/ 同・(3)
(牛乳キャップ収集家の活動ブログ)