戦後50年ほど商われた、県西部・海の街のローカル銘柄。波打つトレードマークは旧浜松市章の翻案。東京・三宅高校(高校牛乳)の校章や、家紋の青山波にも似る。
掲載は往年流通の3世代、種類別の使い分けは不詳。茶刷りの2本は加工乳向けか。(1)番瓶の左右側面には、「コーヒー牛乳」「フルーツ牛乳」「生ジュース」「ヨーグルト」の基本ラインナップが宣伝標示されている。
◆浜松酪農協・創立前後の状況
当地の酪農団体の離散集合は、[西遠乳業雑史](昭和43年・太田八郎著)に詳しい。経営方針を巡る対立・組合の興亡は全国に見られるが、浜松っ子の意地は相当なものらしく、ひときわ複雑な経過を辿っている。まとめるとこんな感じだ。
昭和22年 | |
浜名酪農業協同組合が発足。 |
昭和25年 | |
浜名酪農協から離脱した酪農家約30名が西遠酪農協を設立。 |
昭和26年 | |
西遠酪農協の幹部2名が県会議員選挙へ立候補。
支持を巡って内部分裂を起こし、西遠酪農協から一派が脱退。 |
昭和27年 | |
浜名酪農協から新たに離脱したグループと、西遠酪農協を脱退した一派が合流。
浜松酪農協同組合(第一牛乳)を設立、組合員70名。
浜名酪農協から離脱したまた別のグループは、天竜酪農協(天竜牛乳)を設立。 |
昭和35年 | |
天竜酪農協は乳量不足に陥り、浜松酪農協に合併合流。 |
昭和36年 | |
浜松酪農協から40名が脱退して遠州酪農協を設立。
森永乳業・富士工場へ生乳出荷、森永ブランド製品の販売を行う。 |
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◆浜松酪農協・第一牛乳の隆盛
生産直売の一貫体制を志向する浜松酪農協は、自ら「第一牛乳」を売り出し、大きな業績を挙げた。昭和35年には天竜酪農協が合流、一層の販路拡大が成り、地元では大手メーカーに比肩する規模にまで伸びる。
他の組合は主にメーカーへの原料乳出荷に専念。自家処理・市乳事業から距離を置いていた。オリジナルブランドを展開する浜松酪農協の躍進は、目覚ましいものがあっただろう。
◆平成期に撤退・第一牛乳は消滅
しかし時代の流れは厳しく、平成10年代に廃業され、銘柄は消滅。かつて浜松市の学校給食に採用が多く、一定の年代以上の方の記憶には残っているようだ。合わせてキャップコレクター諸氏の捕捉率も高い。ただ、晩年は紙パックのみの製造だったらしい。
現役時代を伝える情報は意外に少なく、特に晩年の状況が良く分からなかった。浜松酪農協さんは既に解散、もしくは別団体が吸収済みと思われる。
― 関連情報 ―
浜松酪農協の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ) / 同・紙栓 (牛乳キャップとは)
第一牛乳のコップ (牛乳グラス☆コレクション) / 同・宅配受箱 (琺瑯看板探険隊が行く)
馬込川が流れるまち-曳馬地区わが町文化誌 (浜松市文化遺産デジタルアーカイブ)