当地に50年の歴史を刻む、牧場直営ブランド。創始者は戦前、織物工場で財を成した尾関誠一氏。敗戦で内外資産を喪失、還暦にして再起を賭す荒地開墾に挑んだ。
昭和21年に南山へ入植、一帯を「信愛農場」と命名。当初、牛飼いは土壌改良・厩肥確保の副次的な営み。しかし果樹栽培は失敗続き、牧畜専業に舵を切る。
愛知兄弟社の創立を経て「アイボク牛乳」の発売は昭和44年。高速道路の用地接収補償が元手になった。十字マークと兄弟社の商号が示す通り、尾関氏はクリスチャン。バラは繁栄と健康の象徴、十字架はキリスト教精神・真心を尽くすの含意だ。
 |
|
画像上:愛知兄弟社設立当時の記念写真(昭和29年)…尾関誠一氏の回顧録 [恩寵九十三年の思い出] より。トラックの側面にバラ十字と社名のペイント。 |
◆尾関氏とキリスト教の出会い
尾関氏は岐阜生まれ。10歳の時に名古屋の叔父の許へ出され、界隈で一番の呉服問屋・瀧兵商店で丁稚奉公。2年ほど小僧働きをしたが、売買より生産現場を見たい気持ちが芽生え、商店傘下の愛知織物合資会社に転勤する。
織物工場の支配人・早瀬松次郎氏は同志社出身のキリスト教徒。尾関氏は誘いを受けて教会(講義所)に通い、宣教師や出席者と親交を深め、間もなく洗礼を受けた。
◆渡米を断念・織物工場の経営者に
礼拝参加の折に「アルバイトしながら大学に通える」と聞き、アメリカ移住を決心。仕事は順調、染織部主任となり、20歳までに渡航費用200万円の貯蓄を見事達成。
しかし世は日露戦争の勝利冷めやらぬ明治41年、軍国主義の時代。3ヶ月ばかり兵役に就いたた後、約3年間は海外旅行が出来なかった。その間とても待てるものではない。
渡米を諦めた尾関氏は、自身の経験豊富な織物業で立身を志す。貯めたお金で県立工業学校の紡織科を修学、専門知識を吸収。明治45年、名古屋市千種区元古井町に尾関織物工場を興し、和服の補強生地製造で大成功を収めた。
◆上海進出も敗戦で無一文
尾西地方の繊維産業は隆盛を極め、その波に乗って尾関織物も躍進。昭和11年、今池町に新鋭工場を開き、尾関毛織(株)へ改組。東南アジアの市場視察から日本にも洋服を普及させるべきと開眼、婦人服・子供服の生産に注力した。
朝鮮、満州、支那への輸出も多く、昭和13年には上海に直営工場を設置。戦時下に空路の往復困難となるや、現地に居宅を構え自ら工場長を任じ、逞しく操業を続ける。
そして昭和20年8月。敗戦の4日後、上海工場と関連資産は中国側に没収され、抑留生活。翌21年に帰国が叶い名古屋へ戻ってみると、すでに今池の工場は空襲で焼け落ち、跡形もない。尾関氏60歳、40年の成果を全部失っていた。
◆老境に達し山地開墾に挑む
「もう祈るしかない」途方に暮れる氏の脳裏に去来したのは、20年前、抵当流れで自分名義になった日進村の南山。未植林・不毛の荒れ地だった。
昭和初期、当地に鉄道計画ありの情報を得た実業家らが購入も、敷設頓挫・撤回で窮地に陥り、尾関氏が土地購入代金を肩代わり入手した、曰くつきの物件だ。
南山開拓・農業で生計を立てるべく家族・一族で入山。まずは果樹園をやろうと柿とリンゴの苗木を植える。6年越しで結実したリンゴは本場青森の品物に価格・品質面で歯が立たず、柿に至っては、なってみると渋柿という大失敗であった。
◆酪農着手と愛知兄弟社の設立
そもそもが痩せた土地、どんな作物も上手く育たない。附近の農家から「牛を飼って、糞を肥やしに鋤き込むと良い」の助言を得たところ、昭和24年、北海道で開墾農事に携わっていた弟さんが乳牛2頭を連れて南山に合流。これが愛知牧場の端緒だった。
農地整備・果樹栽培の傍ら牛飼いに取り組み、昭和29年に(有)愛知兄弟社を設立。この頃ようやく山に精気が宿り、旧約ヨブ記「乳と蜜とが流れる里」が見えてくる。
社名はメンタームでお馴染み、近江八幡の近江兄弟社にあやかった。尾関氏は同社創業メンバーである一柳米来留(ひとつやなぎめれる、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ)氏の、日本伝道に生きる姿に常々感銘を抱き、その事業見学にも足を運んでいた。
◆溜池と高速道路がアイボク牛乳を生む
昭和34年、伊勢湾台風で果樹群が全滅、酪農経営に転換。乳牛を50頭に増やし生乳出荷へ本腰を入れる。思わぬ臨時収入は、36年に完成した愛知池(東郷調整池)と、43年に開通した東名高速道路、用地買収に係る収容補償費だ。
一部地権の売却を原資に昭和44年、ミルクプラントを建設。自家搾乳・自家処理の「アイボク牛乳」を新発売、名古屋にも販路を拓く。牧場は出入り自由、近所の子供を招いて芋掘り・農業体験を企画し、のちの観光事業の萌芽となる。
◆南山伝道所・南山教会の併設
開墾初期の苦しい生活に、尾関氏は信仰の場を求めた。南山入植の昭和21年、敷地内に南山伝道所を置き、正式認可を経て20年代後期に南山教会・農村伝道センターの体裁が整う。各界講師を招く催しで、教会は活気に沸いた。
戦前知己を得た賀川豊彦氏も、南山を2度ほど訪れる。氏は多種栽培・有畜連携の立体農業論を説くキリスト教社会運動家で、尾関氏の開墾を激励した。南山教会は今も愛知牧場に寄り添う場所にあり、なお宣教活動が続いている。
◆掲載瓶・現行ビン製品などについて
販路は県下一円、低温殺菌がメイン。現行ビン製品は大瓶(900ml)のみ取り扱い、上掲のような小容量瓶装は廃止されて久しい。銘柄は「アイボク(愛牧)牛乳」から「愛知牛乳」、昭和62年の新工場落成を契機に「あいぼくミルク」…と遷移した。
(2)番赤瓶は色物向け、200cc移行前の白牛乳瓶装か。市乳事業参入が44年、翌年には増量期を迎えており、初代の確保は困難。現在当地はバーベキューガーデンや家庭菜園、乗馬クラブにパターゴルフ場を備え、観光牧場としてもご盛業だ。
― 参考情報 ―
ありのままを市民に開放して(有)愛知兄弟社 (同友愛知 98年3月号)
「まきば」の周辺風景(5)-愛知牧場 (まきば通信 第16号) ※PDF
命の基を考えるきっかけ (富坂だより 第7号)
修了者は今・尾関信一さん (日本アグリビジネスセンター)
都市の中での酪農と観光牧場経営 (畜産情報ネットワーク)
「立体農業」と独立自営農民の神としての聖書の神 (えこふぁーむ)
― 関連情報 ―
愛知兄弟社の紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
同・紙パック製品 (愛しの牛乳パック) / 愛知の牛乳キャップ1 (職人と達人)
愛知牧場 (らいこねんの適当な日々) / コスモスと愛知牧場 (ウォーキング・マイウェイ)
小さな旅-初秋の愛知牧場-1 キバナコスモス (フォートラベル)