製瓶会社の固有記号/管理記号の打刻について
<牛乳瓶の製造元を示すサイン> 台所で醤油ビンや七味唐辛子の小瓶を眺めれば一目瞭然、ガラス瓶には側面・底面に何らかの打刻がある。その瓶を作った会社、製瓶年月、管理用の符丁など、表示は様々だ。 牛乳(印刷)瓶の場合、昭和20年代後期から30年代後期は主に底面、昭和40年代初期以降は側面下部(胴部の底近く)に打刻をともなう。底面は彫り込んだ「陰刻」が多い。側面の場合は全て「陽刻」(浮き彫り、エンボス)である。 <製瓶会社固有記号・略号一覧表> 昭和期の牛乳瓶に打刻される製瓶会社固有記号・略号と、変遷を取り纏めた。
一覧の11社について現物の打刻を確認。しかしガラス瓶メーカーは(乳業と同じく)業界再編が進行、今は大半が石塚か東洋、日本山村いずれかの手による。
加えて、昭和30年代極初期のビンの一部に左掲の会社記号が存在も、仔細不明。なお、最新の記号情報は日本ガラスびん協会の工場マップに載っている。
<昭和期の牛乳瓶製造シェア?> 手元在庫のうち、ダントツの一番は石塚硝子製。次いで東洋ガラス、山村硝子、日本硝子の順。日本硝子は昭和40年以前、山村は同年以降に多い。この4社で約7割をカバーする。 残りは広島硝子工業、ユニオンの瓶が拮抗。少し置いて大和、第一が続く。新日本硝子と日本耐酸壜工業は後発組。牛乳瓶への着手が昭和45年より遅いらしく、総量も少ない。 徳永硝子は昭和30年に日本硝子が吸収合併。印刷瓶が市場に普及し始めるのは昭和20年代末期から。同社名義の製造は2〜3年間と短く、残存は稀だ。
<製瓶会社のもろもろ> 徳永硝子は老舗・技術革新のガラス屋さん。日本初のラムネ瓶を作り、三井物産との共同出資で板硝子にも進出、戦後は一升瓶の自動製壜に成功。往時の功績に言及が多い。 変わり種は大和硝子のエピローグ。オイルショックの煽りで昭和50年に倒産、同55年に会社更生法の適用を受け、7,000万円の資金援助を得ると、同社労働組合の主導で「うたごえ喫茶」を始めたらしい…何か凄い展開だが、当時の状況ではベストと判断されたのだろう。 大阪駅前のビルに入居、100平米のフロアーにグランドピアノ、80の客席…6,000万円を投じた再起事業も、平成5年頃、継続困難で閉店した。(⇒大阪第2ビル「ともしび」)
<牛乳瓶の管理用記号/符丁の打刻について> 容量関係の打刻は別項(牛乳瓶の内容量/保存温度/銘柄標示の変遷について)に譲って、ここでは他の管理用記号/符丁を取りまとめた。
◆昭和40年代以前(様式統一前) 一定の共通性はあるものの、この頃の管理用記号は各社独自フォーマットで意を酌み難い点が残る。 瓶底画像左:昭和30年代中期・日本硝子 瓶底画像右:昭和30年代中期・山村硝子
自由表示は会社記号を底面に刻む時期と一致。会社記号の周縁にアルファベットや数字を並べ、製品管理の符丁にした様子をうかがえる。
◆昭和40年代以降(様式統一後) おおむね昭和40年を境に、それまで一貫性のなかった打刻フォーマットが統一されていく。
製瓶会社の違いによらず、現在の瓶も上掲形式で、胴部底寄りに横一列の刻印を持つ。底面に棒記号を放射状(時計状)に打つ場合もあるが、内容は同じ。以下に例を示す。
先頭の数字は、0〜9までの10通りで、西暦の下一桁。次は製造月の刻印で、12通り。
「年(西暦末尾)」は毎年金型を彫り直し。「月」打刻はポンチ(マーキング工具)を使ったドット付与と、2つのドットを連結して縦棒に変えていく手順。毎月更新の作業を軽減する意図だ(数字だと毎月掘り直しになってしまう)。かつて工業規格が定めた方式という。 製瓶会社の固有記号を挟んで最後に現れる数字は金型番号。もちろんメーカー設備次第、最大確認は3桁に及ぶが、良く見るのは1〜2桁だ。 ― 謝辞 ― 打刻フォーマットの仔細につきまして、江田様にご教授頂きました。