広江牛乳 (1)広江牛乳 (1) 広江牛乳 (2)広江牛乳 (2)
広江牛乳 (1)

広江牛乳店
茨城県結城市上山川矢畑300
石塚硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代後期〜40年代初期
広江牛乳 (2)

広江牛乳店
茨城県結城市上山川矢畑300
石塚硝子製・正180cc側面陽刻
昭和43年頃〜200cc移行まで?

広江牛乳 (3)広江牛乳 (3)

江戸時代の養蚕に始まり、菜種油・肥料販売で大ブレイクした結城の豪農・広江家が、明治中期に生んだご当地銘柄。

北海道なみの大農場に乳牛を入れ、定着に注力。昭和の頃には総合商社と言うべき多角経営で、牛乳屋さん部門も発展した。

風変わりなロゴマークは「ヒロエ」の字を丸く図案化したもの。そうと分かって見れば何の不思議もないが、初見は全く謎の記号だった。

広江牛乳 (3)

(株)広江
茨城県結城市大字矢畑300
山村硝子製・正200cc側面陽刻
昭和50年代中期〜平成5年頃

市況厳しき折、平成11年度の乳業施設再編合理化で自工場を閉鎖。以降は茨城雪印牛乳(現・いばらく乳業、雪印メグミルク系列)への製造委託で「広江」の銘を維持。平成29年に至って乳類販売を手仕舞いとされ、ブランドは消滅している。

後ろを振りかえってみよう (古河市の牛乳販売店のブログ)

◆蚕屋さん・油屋さんとして発展

広江家は江戸の昔から矢畑村の名主を勤めた豪農。県下随一の広大な桑園を造成し、往時は桁違いの生産を誇る養蚕業者でもあった。明治中期には菜種の搾油販売、油〆粕の肥料商として伸張著しく「油屋」の異名を取り、その地位を固める。

◆無牛無農・牛飼いの始まり

発端は明治21年。広江嘉平氏が水戸で開かれた蚕業講習会に出席の際、農事巡回教師から「無牛無農」なる西欧の諺を聞いて、深い感銘を受ける。氏は思案のすえ、7年後の明治28年、ついに広江農場へ数頭の乳牛を入れた。

しかし当時の牛乳需要は幼児・病人の栄養食に限られ、酪農単体だと大赤字。結果、主に自家消費と厩肥利用の傍ら、近隣へ余剰乳を少量販売する程度に留まった。

◆牛乳屋さん・株屋さんとして

やがて時代は変わり、牧畜の営みが開花する。昭和初年、広江農場は農事部・蚕事部・畜牛部の三部体制で、市乳処理は飛躍的に伸びた。種牛の育成出荷を通じ、広江の優良乳牛は県内外の各地方に伝播、全国の酪農発展にも貢献する。

さらに商機を見て、塩や石油の販売、貸金業や株式投資に着手。大地主であり、生産者であり、商人であり、ちょっとした金融機関でもあるという、多角化に成功。

このため広江農場は昭和恐慌〜戦時の窮乏、敗戦ショックを乗り越え、大規模経営を維持できた。どっこい進駐政策・農地解放で、戦後は事業縮小を余儀なくされる。

◆戦後復興・今に残る薬屋さん

ともあれ牛乳稼業は子々孫々受け継がれ、昭和28年には広江農場を中心に茨城西部酪農農協(平成8年、きぬ酪農協へ合流、現・けんせい酪農協)が発足、牛飼い復興に弾みをつける。昭和45年、広江牛乳店も法人化、(株)広江となった。

掲載は古い印刷瓶の三世代。合理化以降は委託先設備に拠り、無地の軽量新瓶+プラ栓に転換。開業年は不詳も、旧工場そばの「広江薬局」は、今なお営業中だ。

― 参考情報 ―
広江牛乳の情報 (ごった煮) / 蒔田牛乳店 (広江牛乳の販売店さん)
広江牛乳 (乳業探訪記) / 同・紙栓 (牛乳キャップ収集家の活動ブログ)
茨城県における酪農及び飼料作の創始 (畜産茨城)
酪農今昔物語2 ホルスタイン種の定着 (同上)


創業> 明治28年、広江農場に乳牛導入・搾乳販売を開始
昭09> 廣江嘉平/茨城県結城郡上山川村
昭29> 上山川村は周辺2村と合併、市制施行して結城市となる
昭31> 広江牛乳店・広江亮一/茨城県結城市上山川矢畑304
昭34〜36> 広江牛乳店/茨城県結城市上山川矢畑300
昭39〜48> 同上/茨城県結城市大字矢畑300
                    ※昭和45年に(株)広江を設立も、名簿上はここまで反映せず
昭50〜平04> (株)広江/同上
平11> 乳業施設再編合理化で工場を閉鎖、以降は製造委託
平29> 製造委託を中止、乳類販売より撤退

電話帳掲載> 同上
独自銘柄廃止> 平成29年
公式サイト> 未確認

処理業者名と所在地は、牛乳新聞社「大日本牛乳史」・全国飲用牛乳協会 [牛乳年鑑1957年版]・食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。電話帳の確認は平成19年時点。掲載情報には各種Webサイトや書籍資料(参考文献一覧)の参照/引用、その他伝聞/推測などが含まれます(利用上のご注意)。



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