早川牛乳 (1)早川牛乳 (1) 早川牛乳 (2)早川牛乳 (2)
早川牛乳 (1)

早川ミルクプラント⇒(株)早川牧場
宮城県仙台市花壇1
日本硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代中期〜後期
早川牛乳 (2)

(株)早川牧場
宮城県仙台市花壇1
日本硝子製・180cc側面陽刻
昭和40年代初期

早川牛乳 (3)早川牛乳 (3) 早川牛乳 (4)早川牛乳 (4)
早川牛乳 (3)

(株)早川牧場
宮城県仙台市花壇1
山村硝子製・180cc側面陽刻
昭和40年代初期
早川牛乳 (4)

(株)早川牧場
宮城県仙台市花壇1
日本硝子製・180cc側面陽刻
昭和43年頃

ポーカーフェイスな坊やのイラストが印象的な牧場直営銘柄。明治後期には既に商われていたようすだが、詳しい年次は良く分からない。創設者は後の四代目仙台市長、早川智寛氏。地元の名士らしくその名前は郷土史系のWebに散見される。

仙台中心部を流れる広瀬川沿いには、かつて複数の搾乳事業者が展開していた。仙台市運営の 「広瀬川ホームページ」 には “早川搾乳所” を含め往時の様子を紹介する特集記事が、関係者のインタビューを交えて掲載されており、貴重なエピソードの宝庫となっている。

広瀬川の記憶 vol.7 昭和30年代、暮らしの舞台は橋と川だった
広瀬川の記憶 vol.12 牛越橋のたもとで、50年前の風景をさがす
広瀬川の記憶 vol.17 広瀬川の河原で、のんびりと牛が草を食んでいた

早川牧場を挟んで、上流には 「今野牧場」(仙台市米ヶ袋下丁26)、下流域には 「愛光舎工藤牧場」([全国乳業年鑑] 昭和34年時点の名簿には既に掲載なし) があり、みんな川原に放牧し草を喰わせ、道路を牛群が移動して苦情ひとつ出なかった、という時代のお話だ。

今や現地は東北大学のグラウンドや市営の野球場に取って代わり、周辺は高層マンションが立ち並ぶ。土手を掘り返せば欠けた瓶の1、2本も埋まっているだろうか…?

◆協同組合への転進

昭和43〜44年頃、県下の中小乳業32社が参画・加盟した「宮城県牛乳事業協同組合」設立に伴い、早川牧場のミルクプラントはそのまま同組合の工場へ転換。理事長には(株)早川牧場の社長さんが就任、立ち上げ以前より中心的役割を果たしたことが伺える。

森永と手を結び飛躍的発展を遂げた宮城酪農(ウルトラ牛乳)や、明治を筆頭とする大手乳業各社の宮城進出・伸長への協業による対抗…という意図があったのだろう。

また、宅地化の進んだエリアでは牛飼いの継続が難しく、処理施設の老朽化も問題になっていた筈であるから、搾乳・生産拠点を集約、刷新整備する目的もあったと思われ、早速 昭和44年半ばにはテトラパック充填機が新規導入されたという記録が残っている。

加盟事業者は早川牧場さんも含め、統一ブランド “みやぎ” の共販体制を確立。各社独自銘柄 (及び会社法人) は漸次統合廃止されたケースもあったようだ。“早川牛乳” 銘について200cc時代は確認されておらず、早川牧場という組織も間もなく発展解消に至ったようである。

処理量は設立後 学校給食向けで日産2万7千本、その他市販ルートで13万5千本 (いずれも1本200cc換算) に達し、宮城県下全域へ供給された。

「〜牛乳事業協同組合」 という組織名称は、全国的には学乳の生産・供給に特化した企業連合に特徴的なもの。当初は一般小売されているという事実が掴めなかったこともあり、「宮城県牛乳事業協同組合」 の統一ブランド “みやぎ” の牛乳瓶について、漂流乳業ではなお暫定的に特集-学校給食用委託乳(学乳)専用瓶の別項で紹介を行っている。


創業> 明治年間
昭34> 早川ミルクプラント/宮城県仙台市花壇1
昭36> 同上
昭40> (株)早川牧場/同上
昭43> 同上
※昭和43〜44年頃 「宮城県牛乳事業協同組合」 立ち上げに伴い合併?
   組合発足以降については特集-学校給食用委託乳(学乳)専用瓶に詳述
電話帳掲載・公式サイト> 未確認
銘柄廃止> “早川牛乳” 銘は昭和43〜44年頃の廃止と見られる

処理業者名と所在地は、食糧タイムス社 [全国乳業年鑑] 各年度版による。
創業年等の一部情報は公式サイト他からの引用あり。電話帳掲載の確認は平成19年時点。



漂流乳業