全酪/ゼンラク牛乳 全酪/ゼンラク牛乳
全国酪農業協同組合連合会
東京都中央区銀座4-9-2(本所・畜産会館)
www.zenrakuren.or.jp

戦後の混乱と不況、乳業界は占領政策によって喪失した中核酪農組織の再生とそのリーダーシップを求めていた。昭和21年、社団法人全国酪農協会が発足。「酪農生産者団体には、経済分野を担当する中枢機関も必要」との掛け声で、同24年に「全国酪農販売農業協組連」が誕生。各地の酪農協出資によるもので、設立趣旨は雪印のそれに極めて近い。市乳事業・全酪牛乳の事始めは昭和27年。次いで29年に「全国酪農業協組連(全酪連)」へ改称。躍進と苦境を経て平成13年、生産・販売部門をジャパンミルクネット(株)に統合したが…その僅か2年後、雪印の大チョンボに呑み込まれる。



全酪牛乳 (1)全酪牛乳 (1)全酪牛乳 (2)全酪牛乳 (2)全酪牛乳 (3)全酪牛乳 (3)
全酪牛乳 (1) (2) (3)

石塚硝子製・正180cc側面陽刻
昭和30年代中期〜後期

石塚硝子製・正180cc側面陽刻
昭和40年代初期

広島硝子工業製・正180cc側面陽刻
昭和43〜44年頃?

ゼンラク牛乳 (1)ゼンラク牛乳 (1)ゼンラク牛乳 (2)ゼンラク牛乳 (2)全酪牛乳の紙パック製品(昭和50年頃)
ゼンラク牛乳 (1) (2)

石塚硝子製・正180cc側面陽刻
昭和44年頃〜200cc移行まで?

東洋ガラス製・正200cc側面陽刻
200cc移行後〜昭和50年代

<ブランドの変遷と事件簿>

◆ロゴマーク・ブランドの変遷と牛乳瓶

ひょうきんな牛さんの笑顔で顔馴染みの全酪連シンボルマークは、昭和34年の制定。少なくともそれまでの数年間、マスコットキャラクター不在の「全酪牛乳」印刷瓶が出回っていたと推測できるが、この頃は販売地域がそれほど広くない草創期で、回収は困難だろう。40年代後期に銘柄標示を漢字の「全酪」から「ゼンラク/Zenraku」へ段階移行している。

上掲、漢字表記世代の「全酪牛乳」(1)番瓶は、シンボルマークの初登場と思しき出来。周縁の球状を含め、後継瓶装のそれとは牛さんの描き方に明らかな違いを見て取れる。中間世代を経て(3)番瓶が標示公正規約を受けデザイン変更された直後のもの。全体的に間延びしたような感じのフォントは、後の肉太ロゴを見慣れた目に少々頼りない?印象も与える。

テレビコマーシャル「牛乳は全酪!落語は円楽!」(昭和40年代)

カタカナ世代の幕開け、ゼンラク(1)番瓶は200cc時代の色物専用一合瓶(コーヒー・フルーツなど)であるが、往々にして増量前の白牛乳瓶装を引き継いでいることから参考までに掲載。ただし、「全酪」(3)番瓶で既に“要冷蔵”標示が見えており、200cc化は目前。更改時期によっては色物向け実績のみか、とも。

(2)番200cc瓶はその後、要冷蔵に「10℃以下」を併記しつつ なお昭和60年代まで?存続した。現行の瓶製品について仔細は不明だが、メグミルクへ移行しながらも一部販路では旧称が残存している可能性がある。


画像左:テレビコマーシャル「牛乳は全酪!落語は円楽!」(昭和40年代)…若き日の五代目・三遊亭圓楽がその手に持っているのは、全酪牛乳(3)番瓶と見られる。

◆森永砒素ミルク事件の徳島工場を代行操業

昭和30年、森永乳業・徳島工場の砒素ミルク事件が発生。原乳の引き受け先を失った周辺酪農家救済のため、徳島工場を第三者に委託管理させることを農林省が決定し、全酪連が担当した。当時の徳島県下では明治・森永・ネッスルが工場を有し激しい競争を展開中。この競争とは地理的に無縁で、かつ(資本家ではない)農民による互助団体であったことがその理由だった。

なんとこの代行操業のあいだ、“某メーカーの代表” が管理期間中の工場長を勤めていたゼンラクのところへやってきて、「東京の全酪連本会も了解済み」と嘘をつき、森永の(集乳)地盤奪取を画策した椿事があったという。

報告を受けた全酪連会長が“某メーカーの代表”を呼びつけて一喝し、収束を見たこの事件、いったいどこの会社がやったことなのか、[全酪連二十五年史]は紳士的にも“某メーカー”とだけ書いて伏せている。

そこで当事者たる森永の社史[森永乳業五十年史]を見てみると、やはり同じ事件について触れながら、ずばり実名を晒していた。案の定 明治乳業のしわざであった。森永の窮状を見兼ねた全酪連サイドは、県当局に「国の命令によって全酪連の管理下にある原乳を火事場泥棒するがごとき行為は、早急に中止させよ」と迫った、ということである。

三ヵ月後、徳島工場は森永乳業へ返還された。そっくりそのままで何の問題なく、非常に感謝されたという話だ。

◆牛乳水増し事件

全酪連史上最大の不祥事。平成4年から約四年間に渡り、長岡工場が脱脂粉乳や水を加えた牛乳を堂々の「成分無調整」と称し出荷していた事件。日本生活協同組合連合会の立ち入り調査で同8年に発覚、工場の営業停止と理事会長らの引責辞任へ繋がる社会問題へ発展した。

往時の主婦連による「10円牛乳」運動への寄与など、消費者団体との因縁浅からぬ乳業だけに、バツの悪さは格別だっただろう。

画像右:北福岡工場の市乳製品(昭和50年頃)

北福岡工場の市乳製品(昭和50年頃)

もともと消費は下落傾向、市乳部門の不採算・事業継続の是非さえ論じらる状況下。この事件は営業上の大ダメージとなり、ゼンラク牛乳はその後約8年間、苦渋の赤字経営を続けることになったという。


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<全酪連とミルクネットとメグミルク>

◆全酪連設立前夜のエピソード

創立の際 中心になって動いていたのは、大資本である森永乳業系の酪農協代表だったという。全酪連を作ることにより森永への集乳ルートを全国的に確立したい(運営主導権の獲得目的?)という思惑があったらしい。

しかし参画者には乳業メーカーの系列に入っていない酪農協もまた多く、“資本の横暴さを見せてきた乳業に対抗するためには、全国組織で団結するしかない”という考えが大勢を占め、結果的にこの目論見は達成されなかった。とはいえ、その後も森永と全酪の関係はおおむね良好であったと[全酪連二十五年史]は記している。

◆全酪連に身を委ねた酪農協

全酪連の市乳事業参入は昭和27年。宮城県本吉郡津谷町・本吉郡酪農業協同組合の委託経営から。翌年には岩手県二戸郡・二戸農協組、宮城県遠田郡・遠田酪農協の市乳工場を傘下に収め、全酪牛乳はまず東北地方から浸透を始める。

東京工場の市乳パック製品(昭和50年頃)

他の大手乳業と同じく、更に昭和30年代初期に主要な生産拠点と販路を確立していった。主だったところで以下の通りである。

愛媛県・西宇和酪農業協同組合
新潟県北魚沼郡・魚沼酪連(堀之内工場)
茨城県守谷町・共栄酪農業協同組合
新潟県長岡市・越路酪農業協同組合
茨城県・結城酪農業協同組合
兵庫県神戸市・岩岡酪農組合

画像左:東京工場の市乳パック製品(昭和50年頃)

また、ブランド名には直接反映されない、組合員に対する技術供与・運営支援などの形で、全酪連の血統は多くの乳業/酪農協の市乳処理工場立ち上げに影響を及ぼしている。

◆ジャパンミルクネットから日本ミルクコミュニティへ

水増し事件のあった平成8年、全酪連直営の2工場を独立会社とし、同11年にはジャパンミルクネット(株)を設立。主力銘柄を「全酪酪農家牛乳シリーズ」「北海道シリーズ」へシフトしつつ、ゼンラクの威信をかけた経営再建が本格化。

更に13年に乳業事業の販売部門と製造部門をジャパンミルクネットへ統合。組織の効率化を目指した大改編で、最終的には見事に黒字商売へ転換したと伝えられたが…雪印乳業の集団食中毒事件を契機に業界全体の再編が巻き起こり、平成15年、日本ミルクコミュニティ(株)・メグミルクへ統合されてしまった。

過去、全酪連の公式サイト・全酪連のあゆみには、それについて「新しい形で乳業事業の展開を始める」と絶妙な表現がなされていた。

その2年前から既に“新しい形で乳業事業の展開”を自前でやっていたわけで、表には出せぬ忸怩たる想いもあった?だろう。


画像右:東京工場の乳製品(昭和50年頃)

東京工場の乳製品(昭和50年頃)

◆未来予測はいつも虚しい

この項で度々取り上げた全酪連の会史(社史)、[全酪連二十五年史](昭和50年・同会刊)の最終章には、“昭和75年の酪農予測・25年後の本会を展望する”と銘打った未来予測・長期計画案が登場する。それほどのページ数が割かれているわけでなく、レジェメに近いものだが…。

そこにはもちろん、水増し事件も雪印の転落も予測されてはいない。ジャパンミルクネットも日本ミルクコミュニティも出てこない。そんな前提を立てられる筈もなく、当たり前の話である。一時期から盛んに使われるようになり、もはや慣用句と化した「あってはならないこと」が、いかに多く乳業界で起こってしまったか…昭和75年(=平成12年)を見越した記事には深い哀愁が漂っている。


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